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室町幕府応援サイト『戦国黎明記』


 小見出し
「守ってみせる」
「頼れる明かり、今は無くとも」
「海坊主、現る!」
「ちょっと余談、室町ワールドのこと」
「君が見ていた彼の岸は遠く…」
「波風大しけ、船内事情」
「もう一つの海難」
「御台に潜む渦」
「それは東国の渚から」
「斯波にはヤツがいる!朝倉孝景」
「ダブルキャストで畠山!義就と政長」
「来たコレ新主君!斯波義廉」
「本気の政所頭人、伊勢貞親!」
「期待の新星!足利義視」
「嘉吉の真相」
「禁闕の変」
「揃った役者」
「そして始まるスペクタクル」


6 室町幕府の後半戦へと続く道


 ええと、前回の「5 終章・室町幕府の前半戦」で、
1460年まで終わらせる予定だったのですが、
義教さんのこと語り出したら止まらなくなってしまい、
前半戦20年も残してしまいました。
 という訳で、この章では、
『嘉吉の変』(1441)から『応仁の乱』勃発前夜(1466)までの、
びみょーーな四半世紀を、適当に語って行きたいと思います。



「守ってみせる」

 さて、「公方様が暗殺される」という、
誰得状態に陥ってしまった室町幕府ですが、
こんなんで終わるような "俺らで幕府" ではありません。
俺らの幕府なんだから、俺らが守っていかないとね!
 (※誰得(だれとく)…「え、何? それ誰が得すんの? マジで、誰か得する奴いんの?」
  という不毛な様を言う。)

 といってもこのような状態は、戦国的史観からすると
 「将軍がいなくなったら、残りの大名で天下取り合戦だろ!」となるのかも知れませんが、
それは(少々厳しい言い方をしますと)、かなりちんけな発想かと思われます。
己のことしか見えていないならそうなるのでしょうが、彼らは仮にも幕府の一翼を担う大名家の惣領
先祖代々「天下」という視点に立って生きてきた訳ですから、
単に「人の上に立ちたい!」という己の小さな欲望を爆発させて、身勝手に世をひっくり返すより、
天下万民の利を以って己が利とし、協力して政権を維持していこうとするのは、むしろ自然の成り行き。
仏教に通じる彼らが、小我(しょうが)を捨てて大我(だいが)を取るのは、当然と言えるのです。

 (※大我…基準は宇宙。 宇宙レベル天下レベルで物事を考えられる、めっちゃ器のでかい奴。その境地。
  ※小我…俺さえよければいい。私欲全開!  煩悩まみれの狭い自我。  ……どちらも仏教の言葉です。)


…とか、褒めちぎっちゃったけど、まあ実際、人間そんなに出来た奴はそうはいない。
『嘉吉の変』後、すぐさま7代目将軍として義教の嫡男、足利義勝が擁立されたのですが、
なんせまだ8歳(数え年です。実際は満7歳)、上意は無きに等しい。
叱る者がいなくなったら、途端に好き勝手に振舞い出す者も出てきます。
幕政は管領主導のもと、幼君義勝を支えるという形で執り行われていくことになったのですが、
代々立派な管領家っていったって、やはり足利将軍家の持つ "一線を画したカリスマ性" には遠く及ばないのです。
 (※この、"武家の棟梁" が持つカリスマ性、どうにも言葉で説明したり証明したりし得ないのですが、
  当時の史料で武士たちの言動を追っていると、確かに "何かある" んです。
  追究し甲斐のある "室町七不思議" のひとつであり、この時代を面白くしている要素のひとつだと思います。)


 まあ、管領細川持之は、『嘉吉の変』では我先にと逃げてチキン振りを発揮してしまった訳ですが、
でも、以後の幕政では頑張っていたと思います。
 さて、まずは公方の御敵・赤松を誅伐するのが最優先課題ですが、
管領の命令では、諸大名を結集させるには―――やはり弱い。
上意の求心力は半端ねぇ…。うーん、どうしよう。
細川持之は、幼君義勝の後見として、義教の弟で僧侶の義承を立てようと提案しますが、これは却下されました。
 (後の禍根となりかねないので、却下は当然と言えるでしょう。 しかし、どんだけ自信ないんだよw)

そこで登場するのが、天皇の意を奉じた文書「綸旨」(りんじ)です。
「治罰の綸旨」が下されることで赤松は「朝敵」となり、一気に武士たちの士気を上げることが可能となるのです。

 (※ちなみに、上皇(=院)の意の場合は「院宣」(いんぜん)です。
  この「綸旨・院宣」が下されるのは、もちろん戦(いくさ)関連に限ったことではありませんが、
  室町時代、武家の紛争でしばしば「綸旨・院宣」が登場する事実は、
  "その戦の性質"、さらにまた、"朝廷と武家の関係" を考える上で、注目に値します。
  幕府創生期に、九州に下る足利尊氏光厳上皇から拝受した「院宣」は有名ですが、
  実は、義教の時代、関東の「永享の乱」(1438)でも「綸旨」が奏請されました。
  この戦は、関東管領・上杉憲実を救出する為に、鎌倉公方・足利持氏追討を掲げたものですが、
  京都から離れた遠国であり、さらに、敵が洒落にならん強敵(権威・求心力という意味で)な為、
  かなり際どい戦況が予想され、在地の武士たちを一つに纏めて士気を鼓舞し、勝利を得るには、
  「綸旨」の効力が必要だと判断したのでしょう。 この抜かりのない戦略、まさに、
  "籌策を帷帳の中にめぐらし勝を千里の外に決す"「張良」の如し、
  "勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求める"「孫子」の如し! さすが義教! …と、褒めまくるw
  いやはやそれにしても、幕府のピンチに天子様。 ありがてぇ、ホントありがてぇ。)


 しかし、確固とした上意を失った幕府が、そう上手く行くはずはなく、管領の重責は相当なものだったでしょう。
細川持之は体調を崩し、1年で管領を辞任、その後1か月半も経たずに世を去ります。
代わって管領となったのが畠山持国
まあ、彼はそこそこの年齢だし期待出来そう、幕府も何とか軌道に乗って… 来て欲しかったんですが、
嘉吉3年(1443)7月、7代目義勝は将軍となって2年足らず、10歳で病により夭折
その後は、同母の弟足利義政8代目将軍として後を継ぐことになります。
 (とうとう登場しました、8代目足利義政w しかし、この時まだ9歳(満7歳)。
  しかも、管領家斯波の家督、斯波義建9歳。 細川持之の後を継いだ細川勝元14歳
  …な、なんて頼りない幕府になってしまったんだ。
  「国家の宗臣」とも言われた斯波がもう少し頑張っていればまだ何とか…って、後悔しても570年遅いかw)

 (ちなみに、細川持之は享年43歳。… "公方無き幕府" の重さを物語る、急逝と言えましょうか。
  持之は、義教が6代目将軍に決定した翌年(1429)、兄の跡を継いで細川家の家督となり、
  永享4年(1432)以降は管領として、永らく幕政に貢献してきました。
  『嘉吉の変』後の幕府最大の危機をかろうじて乗り越えられたのは、細川持之の功績と言っていいと思います。
  「嘉吉の徳政一揆」とか、洒落になんなかったっすよね。
  しかも、赤松の謀反に同心してるんじゃね?とかいう噂にも悩まされ、
   (「それは無い!」と『建内記』できっぱり否定されています)
  管領下知(=命令)の効力の弱さに不安を覚えながら、それでも、どうにか幕府を切り盛った細川持之は、
  3代目義満の幼少期を支えた細川頼之に勝るとも劣らない、賞賛に値する功臣だと、私は思います。)


 そんな訳で、7代目・8代目と続く幼君を抱え、畠山持国、後に細川勝元が交互に管領を務めて、いざ、
漆黒の大海原に漕ぎ出した室町幕府号でありました。 彼らが暁の水平線に辿り着く日は来るのか?!

 (まあ、結論から言うと、
  四半世紀後に "応仁のアイ乱ド" とかいう新大陸発見しちゃうことになるんですけどね。
  いらんことしてくれるよねホント。 …とか言うなぁぁーーっっ!! )



「頼れる明かり、今は無くとも」

 とはいえ、管領家である彼らは、他の大名よりも幕府を支える自覚は強いでしょうし、
立場もそこそこ弁えていたとは思いますが、いかんせん、"頭(かしら)" というものがいないと、
社会は方向性を見失いがちでありまして、舵取りが近視眼的になってしまうようです。
管領の交替のたびに、幕府の方針が変わってしまうことが少なくなかったのですが、
それは、両管領畠山・細川のもとに、大名の派閥が形成されていってしまうこととも関連が深いでしょう。
はあ…なんてこった。
 万人には見えぬ闇の先を照らし、船を真っ直ぐに導いてくれる "上意" という灯台の明かりは、
公方様 "孤高" から放たれていたものだったんですね… って、公方に夢見すぎかw

 (ところで、管領=幕府ナンバー2というと、権力の座をめぐって相当えぐい争いが展開されていたんだろう、
  とか想像してしまいがちですが、はっきり言ってそんな事はありません。
  なぜかというと、管領って仕事は、やる事多いし、責任重いし、儀礼面でも負担大だし、とにかく大変なのです。
  だから、権力振るえて利益誘導できて私欲満たしてウハウハ…なんて楽しいものではなくて、
  公務に身を縛られる、いわば貧乏くじ的な側面が強く、出来ればやりたくないのが本音です。
  もちろんメリットが全くない訳ではありませんし、名誉な職であることに違いはありませんが、
  畠山持国細川勝元が短期間でコロコロ交替しているのは、
  何が何でも管領の地位にしがみ付かんとして、お互い奪い合いをしていたのではなく、
  暗黙の合意の上での "代わり番こ" だったと見た方が実態に即しています。
   (事実、管領はちょっとなんかあるとすぐ辞表を提出します。ま、大抵は公方に慰留されますが。)
  もちろん、管領創成期(2代目義詮・3代目義満初期の頃)は、また話が別ですが、
  6代目義教の時期なんて、
    畠山満家が多年粉骨してきてもう限界
  → 次に任命された斯波義淳は、何度も拒否しまくった挙句、観念して就任
   (この時は、満済とか諸大名とか斯波の被官とか総出で説得の大ごとだった)
  → しかし、3年程で辞意表明。次の細川持之も初めは何とか辞退しようと頑張った…ってゆう。
  お前ら、ちっとは快く、義教さんの背負う重荷の一部を肩代わりしなさいよw)

 まあ、彼らが "高い地位" というものにそれほど貪欲ではないのは、この時代はまだ、
それが "家による世襲" であったからでしょう。
"力ずくでのし上がって来た" 場合の、権力自己顕示欲への強烈なこだわりと違って、
もっと余裕があるというか、立場を弁えた、上品な印象を受けます。
 (もちろん、世襲のメリットが生きてくるのは、教養自覚があって人格が備わっていた場合ですよ。
  その点、大名家の家督に、才能や人徳、人望を求めた義教は… って、また褒め始めたw すみません。)

 そんな感じで、前途多難ながらも何とかやっていけそう、
あの3代目義満だって、スタートは管領に支えられた幼君だったんだしね!
よし、やる気出てきた、明日の海路は明るいぞっ、うん!
……って、あ。忘れてた。この幕府は宿命的に… "水面下は世紀末" だったんだ。(…ちーん。)



「海坊主、現る!」

という訳で、海上に姿を現した今回のヒャッハー担当は、山名宗全こと、山名持豊(もちとよ)です!
 (※「宗全」(そうぜん)というのは、入道(にゅうどう)後の法名です。
  この時代の武士は、たいてい晩年は入道しました。
  "入道" とは、在家(俗人)のまま僧形となり、仏道に入ることで、
  俗世を捨てて僧籍に入る完全な "出家" とは違い、寺に入る訳ではなく世俗の生活を続けます。)

山名宗全は『嘉吉の変』直後、さっそくアップ(準備体操)を始めます。
洛中の土蔵(土倉(中世の金融業者)の倉庫。質物が保管してある)に押し入って、
 「(赤松討伐の)出陣に必要なんだよ! ちょっと借りるだけだよ、借・り・る・だ・け!」
とかいって、略奪始めるし。 
しかも、管領細川持之が「おいやめろ、マジでやめろ」って言っても聞かないし。
怒った管領様が、山名ぶっ潰す支度始めてようやく大人しくなった…てゆう。(『建内記』嘉吉元年7月12日)
ホントどうなってんすか。
山名宗全は、永享7年(1435)に父・山名時煕から家督を相続していて、
義教存命中は、別に常識外れた行いもないんですけどねぇ。
この時期の山名宗全の濫吹、寺社本所領の押領の果てし無さは、『建内記』にその惨劇が綴られています。
 (※濫吹(らんすい)…秩序を乱すこと。乱暴狼藉。
  ※寺社本所領…寺社や公家を領主とする荘園。 武家の所領に対して用いられる用語。)
なんたる猛々しい振る舞い…でもそれゆえ戦は強く、赤松討伐では大活躍します。
その戦功によって、赤松の分国であった播磨・備前・美作の3国を手に入れるのですが、
その3国での押領は、もう誰にも止められないものとなって行ったようです。
 (※播磨国:現在の兵庫県南西部、 備前国・美作国:現在の岡山県東部)


 ただし、武家による寺社本所領の押領は、他の分国でも頻発していたし、
第一、今に始まったことではありません。
南北朝の動乱期に、ヒャッハー面に堕ちてしまったカオス渦巻く国々に、なんとか秩序を取り戻そう、というのが、
室町幕府発足以来基本方針であった訳ですから。
 京都を拠点と定めた室町幕府は、朝廷公家、寺社権門に配慮した政策を採って行くのですが、
幕府ってのはそもそも "武家による政権" ですから、配下の武士たちの要求も汲まなくてはなりません。
その辺の駆引きは、非常に難しいものだったでしょう。
文治を貫いて、武断派から失脚に追い込まれた足利直義(初代尊氏の弟)しかり、
公正を貫いて、その厳しさに不満を持つ人々から疎まれた足利義教(6代目将軍)しかり。
 でも、私は彼らが間違っていたとは思いません。
圧倒的に力の勝る覇者が「欲望のまま何をしてもいい!」なんて武力が全ての世界は、
知恵ある人間が目指すに値するものでしょうか。
 確かに、直義義教はその人並み外れた頭の良さから、
世俗がついて来られないほどの崇高な世界を描いていたのかも知れないけれど、
縁故や身分、金銭、武力ではなく、道理正義を則(のり)とする世界なんて、実に目指し甲斐があると思います。
夢物語と揶揄されようが、どうしようもなく気高いものに魅せられしまうのもまた、
武士の性(さが)だと思いますw

 (※一応断っておきますと、私は別に、無条件に武力を否定している訳ではありません。
  ってか、だったら室町時代の武士に興味持ったりしませんw
  人間は動物である以上、力を完全に手放すことは原理的に不可能です。 それを認めた上で、
  知恵によって制御した、賢い武力を身に付けるべきであって、
  欲と野心で見境無く振るう、愚かな武力が嫌いなのです。
  だからこの時代の武士でも、その力の使い方によって、かなり好き嫌いがありますw 
  …って、私意は挟んじゃダメだって言ったじゃないですかぁーーっっ…すみません。)



「ちょっと余談、室町ワールドのこと」

 それともう一つ、室町幕府は "武家による政権" ですが、
決して「 "武家の為の政権" ではない」ということです。
もし後者であったなら、荘園制という旧社会の制度を積極的に破壊し、貴族階級を退けて、
武家の繁栄の為の社会システムに作り変えていたはずです。
彼らが求めたのは、万民の為の泰平であり、
守りたかったのは、みなが等しく繁栄する為の秩序だったのです。

なぜそう言えるのか。
それは、時と共に社会が変化していくのは、仕方のない条理であって、
貴族その地位のみで、土地と人民を支配できた時代は終わりつつありましたが、
武家に政権が移ると共に、次の則るべき規範として彼らが採用したもの、それが―――
"武力" ではなく "道理" だったからです。

『御成敗式目』起請より
 「およそ評定の間、理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず。
  ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり」

『建武式目』政道の事より
 「はこれ嘉政、政は民を安んずるにありと云々。早く万人の愁を休むるの儀、速やかに御沙汰あるべきか」

                          【『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』(岩波書店)】

ただ道理一つを信じて、世間のしがらみも権力をも恐れず突き進め!! …とか、かっこ良すぎますww
徳による政治を善として、それが民の安寧の為にあるべきとする彼らが、
自分たちの欲するままに、朝廷や公家、寺社から奪えるだけの権力や土地を奪い、
その地位を蹂躙していったとは、とてもじゃないけど思えません。
室町幕府は、その始まりの "なあなあさ" からも分かるように、
あまりがつがつしたところがない、と言いますか、
既存の社会を無闇に否定して革命!革新!…ではなく、「過去の善政に立ち帰ろう!」がスローガンです。
 (この辺も『建武式目』に記されています。かなり保守的に、万民の為の徳治を謳っています。)

 だから、京都に拠点を置いて、用意周到・計画的に旧権門から権力を奪っていったのではなく、
大覚寺統・持明院統の分裂ですっかり疲弊し、イマイチやる気が戻らない公家社会に代わって、
なんか…頼まれてしまった、みたいなところがあるのです。
朝廷との関係密接なものとなり、
幕府に多くの公家が祗候(しこう)するようになっていったのは、自然の流れでもあります。
 ただし、完全に両者が融合した訳ではありません。
主上(天皇)と室町殿(将軍)の上下関係が崩れたのでもないし、
幕府に祗候するようになったといっても、公家の本質はあくまで廷臣です。
つまり、主上・公家・武家の役割は、本来次元の違うものであって、根本的な部分で拮抗するものではなく、
それ故、"融和・共存" の関係を構築出来たのです。
 (※朝廷武家の関係についての研究は、
  残念ながら "時代ごとの思想" が非常に反映されやすい分野なので、
  真実の解明までに紆余曲折を経る事になったのかも知れませんが、
  しかし、この分野も近年は歓迎すべき実証的な研究が追い上げ中です。 がんばれ!!)

 まあ確かに、8代目義政の時期は、公武の関係は非常に親密でありながら、一方で、
後述の義政の御台(みだい。正室)とその兄の権勢が頂点に達する時期は、
勅裁(天皇の裁決)をも無視する信じ難い事態が発生しますが(ってか、この2人は公家ですがw)、
基本的に、歴史を知り礼節を身につけた武士は、主上に敬意と敬愛を持って仕えていました。
 (※世が乱れた南北朝期、図に乗って朝家を軽んじる武士に、
  めちゃむちゃ怒っていた足利直義しかり、
  6代目足利義教の、主上自身が認める朝家への貢献もまたしかり。)
何より、
ほのぼの視点で見る主上と室町殿の関係は、(失礼かもしれないけど)けっこう面白いですw
勅書とか天盃とか授かって、めっちゃ恐縮したり、喜んだり。
近くにいるから参内エピソードも多いし。(しかも、楽しそうw)
 (※参内(さんだい)…内裏に参上すること)
室町幕府が京都にあったからこそ、
こんな風に、(鎌倉・江戸時代にはやや見えづらい)両者の関係が、実態として存在するのであり、
それ故、両者を敵対・対立的に捉えてしまうと、
この時代の最も面白い部分を、ばさっり切ってしまうことになって、もったい無いどころの話じゃなくなります。
武家政権時代(鎌倉・室町・江戸)の主上公家は、イマイチ馴染みが薄いかもしれませんが、
殊に室町時代に関しては、かなり有意義な関係が存在していたし、
公家の日記から室町殿の言動をつぶさに知ることが出来るのも、
この時代ならではです。(まあ、下世話な話も多いがw)
 折角面白い日記がたくさん残っているのだから、どんどん発掘して、
武士だけでは終わらない、「主上と公家と武家と寺社、そして在地の民」が織り成す、
どこまでも広がりのある "室町ワールド" の真の姿に、多くの人が気付いてくれると嬉しいです。

 (当時の公家武家僧侶の交流は、想像以上に密接です。
  歴史の概説書だけでは分かり難いですが、日記を読めば一気に印象が変わりますよ。
  私が、みなさんに一次史料(日記など)を勧める理由がここにあります。
  本当の "室町の日常" は、わりとほのぼのしてたんです。 妄想が捗るね!)


 ちなみに、この時代公家って何してたの?…とか思うかもしれませんが、
まず第一に、彼らは朝廷に仕える「廷臣」です。
そして、室町幕府の体制が整っていくにつれて、将軍に扈従(こしょう。お供する事)する公家も増えていきます。
ただし、家柄によって幕府との関係も変わってきて、
「摂関家」(摂政・関白に任ぜられる公家の頂点、近衛、九条、鷹司、二条、一条家)はやはり別格であり、
続く「清華家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」の家格の公家も、
その家柄・持てる技能によって、祗候の仕方に違いがあった訳ですが、
この、公家が家業として伝える伝統文化『有職故実』(ゆうそくこじつ)、
――― 具体的には文学・和歌・装束、その他あらゆる芸道・作法などなど、
その貴重な知識は、公家社会のみならず、武家(幕府)にとっても必要不可欠なものでした。
 彼らは、所領の維持・管理において「武家の力」を必要としましたが、
武家もまた、学問・礼法・文化に関して「公家の知識」を頼りとしたのです。 持ちつ持たれつの関係です。

 (※『有職故実』…古より代々受け継ぐ儀式・礼法・慣習に関するの知識の蓄積。それを研究する学問。
  「先例」が重んじられていた時代、伝統に精通し、それを守り伝えて行く事は非常に重要な事だった。
  ちなみに、武家の場合は『武家故実』(ぶけこじつ)と言い、
  室町時代に目覚しく発展、確立した。
  特に貢献した武家は伊勢家、それから小笠原家今川家など。)


(…余談おわり。)



「君が見ていた彼の岸は遠く…」

 さて、話を元に戻しますと、
その武勇を遺憾なく発揮し赤松退治で戦功をあげた山名宗全は、新たに手にした播磨・備前・美作の3国で、
思う存分押領の日々。管領の制止は、もはや意味を為しません。
その手法は、
 「文書による理非は無視、今この時その土地を、誰が実効支配しているか。それが全てさ Oh!My ルール!」
俺のルールは道理に勝る、ということです。(『建内記』文安元年5月28日)
 うーん。武力のある者にこれをやられてしまうと、もう公家や寺社は手も足も出ません。
…まあでも、押さえが効かなくなった武士が好き勝手始めれば、こうなりますわな。
武力より法が勝る社会を実現させるには、やはり厳密な成敗が必要だった訳です。
 義教の厳しい成敗の恩恵を最も受けていたのは、
武力による非法が罷り通る世の中においては泣き寝入りするしかない、弱い立場の者たちだったのです。

 こうして、『嘉吉の変』を境に、世界のルールは変貌を遂げていくことになります。
よく「義教の悪政のせいで、没後に社会が乱れていった」みたいに言われることもあるようですが、
そりゃ、大いに無理のあるアクロバット解釈というものです。
 どう考えても、「義教の厳密の沙汰のおかげで、世紀末水面下で大人しくしてくれていた」だけの話、
没後にカオスが始まったのは、
エントロピーの増大を一人で食い止めていたのが義教だった」ってことの紛れもない証です。
本当は好き勝手振舞いたい!という人間の本能を抑え、
自己利益よりもを、道理を、を優先させる為に、
厳しさと正しさを、強い覚悟を持って貫いていたのです。
……ただ、ちょっと独りでやり過ぎてしまったのは誤算です。
本来はそれぞれ各自が、自分で自分を律して行いを正すべきですからね、あんまり口出しすると、
人々は従うだけで、成長しなくなってしまいます。
義教がいる間はそれでもいいけど、いなくなったら…
 社会が従うべき規範突然に失って、人々が、今度は自分の中にそれを見出さなくてはならなくなった時、
足並みの揃わぬ模索は、まさにに任せるような、嵐の夜をゆく航海であったと思います。

 (※『応仁の乱』はよく分からん! 何で起きたん? ってか何がしたかったん?…とは昔からよく言われますが、
  この辺を本質的に理解しようと思ったら、
  義教期辺りからの人々の意識社会の変化を追っていく必要があります。
  「不毛で無意味な戦い」というのはあくまで現代の評価であって、
  当時を生きていた彼らには、変わり行く時代の中で、それぞれに抱く思いもあったはずです。)




 さて、この時期の特徴として、「家督争い」頻発&泥沼化というのがあります。
信濃の小笠原、近江の六角、加賀の富樫、そして、管領家の斯波畠山…が主なところです。
これについても、なんか全部義教が悪い、義教が原因作った、義教のせいだ! ってことにされてますが…
 「そうやってさぁー、なんでもかんでもさぁー、
  もういいじゃんっ、全部義教のせいにすればいいじゃんっっ」
と、ノートの隅に変な図形を変な姿勢でなぞり続けたくなります。くるくるくるくるチマチマチマチマ……

 だいたい、 「家督争い」ってのは、宿命的に自然発生してしまうものであって、
それが武力衝突に発展してしまう前に、
いかに正しい裁許で、確かな指導力で、事を収めるかってのが、上意の役目だと思うのですが。
逆に言うと、上意だけがそれを可能にし得るし、それが出来る上意が "良い上意" だと言えるのです。
 実際、管領の下知(=命令)では、大名家を従わせるには弱い…どころか、むしろ、
管領の畠山と細川が、それぞれに対立する当事者の援護に回ってヒートアップしてる始末。(小笠原、富樫の件)
8代目将軍義政も、幼少期は致し方無いとはいえ、成人後の裁許は…その、うーんw
 (ただこれに関しては、近臣たちの恣意や、強くなりすぎた大名の干渉が洒落にならないことになってたので、
  義政も初めは頑張っていたけれど、どうにも力及ばず…で、厭世的になっていった…ってそれじゃダメかw)

 殊に、家督の問題に関しては、確固たる基準に基づかせる必要があったと思います。
口入(=口利き)があったから、縁故が、賄賂で、…なんてことでコロコロ判断を変えて行ってしまったら、
その後の惨事は火を見るより明らかです。
 (口入工作で何とかなるという風潮を作ってしまったら、それは道理にもとることを許容することでもあり、
  やがて、謀書(偽造文書)や讒言(ざんげん。人を陥れる為の嘘、虚偽の中傷)、武力行使など、
  あらゆる非道が巷に溢れ、正義もへったくれも無くなります。
  つまり、"理非の正しさ" 以外に付け入る隙を与えてはいけないのです。)
その点、義教の場合は、
(前家督者の意向がまず先だが)基本的に正当な後継者は嫡男、
器量が伴っていなかったら相応しい者を選出、しかし、最も重視すべきは家臣の支持
という信念があったと言えます。
 (嫡男を差し置いて溺愛する次男に…とか、養子を家督継承者に定めておいてやっぱり実子に…とか、
  そういう不義なやり方は嫌っていたようです。)
上記の中で、義教期に原因をたどれるのは加賀の富樫の件だけですが、これも、
当時の加賀守護富樫教家が日頃から上意に反することがあったため逐電 → 弟の富樫泰高が後を継ぐ、
という経緯があり(『建内記』嘉吉元年6月18日)、
『嘉吉の変』後、管領細川持之そのまま富樫泰高を支持していましたが、
しかし、後に畠山持国の支援を得て、没落していた富樫教家が復活、
そして上意不在の中、武力による奪い合いへ…
 これを「もとはと言えば、義教が守護家に介入したせいだ!」と言ってしまったら、
それは上意に「サボれ」と言っているようなもの。
"秩序維持"「上意」に与えられた最重要任務であることを考えれば、むしろやるべき事をやったまでだし、
その後の家督争いの激化は、"確たる指標(上意)" が不在だったからこそ招かれてしまった事態なのです。

 (※もしかしたら、将軍が大名家の家督なんていう "私的なこと" に口出すなんておかしい!…という
  意見があるかもしれませんが、それは現代個人主義・自由主義的見地からの誤解です。
  中世は、将軍はもとより、守護・守護代といった地位は世襲でした。
  そしてそれは、単なる "ただで地位を手に入れられる特権" ではなく、
  "民の為に正しく国を治める義務" をも内包していたのです。(※参照:『建武式目』および『追加法』)
  つまり、地位ある武家の家督というのは、完全に私的なものではなく、
  「公」の為に制約を受けることはやむを得ないことだったのです。
  将軍が持っていたのは、"守護家の私事に介入する権利" ではなく、
  "公的な任務を滞りなく遂行させる権利" と考えるといいと思います。
  また、義教による家督介入について、
  "将軍絶対の志向" とか "大名家の弱体化" と結び付けられることが多いですが、
  いったい、「公方」たる者、何が楽しくてそんなことを "目的" とするのでしょうか。
   ("手段" ってならまだ分かりますが…でもやっぱ "目的" がイミフすぎるかw)
  実際、介入するのは問題がある時だし、その時だって、諸大名の意見を聞き、家臣の意向を重視しているのです。
  家督に求める資質を見ても明らかなように、
  その "目的" は「将軍としての自分の為」ではなく、「安定した治国の為」であったと考えられます。
  …どうも、将軍の行動原理というのは「保身、驕り、利の独占」という文脈で語られがちですが、
  ちゃんと調べると、それはほぼ論拠の無いレッテルであることが殆どです。
  そんなちんけな将軍ばかりではないのですよ。
  特に足利家は、『清和源氏』という "内なる宿命" と "外からの期待" を、その血に重く背負っていますから、
  たとえば足利直義のように、清々しいまでに広く天下を見据え、万民に尽くす道をひた走った、
  アホがつくほどロマンチストな将軍も少なくないのです。
  私利より公利に魅せられる支配者だっている、と私は思いますw)


 他の大名家の家督問題についてもだいたい似たような感じです。
派閥を形成し一方に肩入れする大名、恣意的に振舞う近臣、そして公方「御成敗不足」
これらが相俟って、進むべき航路を外れた船は、目指していたはずの "理想の島" を見失い、やがて、
"別の島" にたどり着いてしまうことになるのです。 (ちーん。 …って、笑い事じゃないんですけどっ!)

 (※ "別の島" とはもちろん、『お騒がせ新大陸・応仁のアイ乱ド』のことですが(ダサい名前でごめん)、
  たどり着けなかった "理想の島" は、ここでは仮に『彼の岸』(かのきし)としたいと思います。
  『彼の岸』とは、『彼岸』(ひがん)のことですが(春と秋のお彼岸、お墓参りweek のあれね)、
  『彼岸』とは本来仏教用語で、「理想の世界・煩悩を超越した悟りの境地=涅槃(ねはん)」を意味します。
  涅槃である『彼岸』に対して、
  煩悩に満ち、悟り切れずに苦しみ暮らすこちらの世界、すなわち俗世を『此岸』(しがん)といいますが、
  『応仁のアイ乱ド』は、さしずめ『此岸』と言えるでしょう。
  …つまり、修行が足りなかったんだよ! ぺちーん。)


 まあ、どうしても個人というのは、自己の利益欲望といった "小我" で行動してしまいがちですからね、
誰かが、小我を超越した大我、すなわち、道理正義という "より高い基準" に立って指標となってくれないと、
万人に利する世界を実現することは、容易(たやす)い事ではありません。
もちろん、個人自己の幸せを追い求めること自体は奨励されていいのですが、
個々の欲念の集積が、天下の幸福には必ずしも結びつかないことは、
特に、上に立つ人間は弁える必要があります。
 中世の歴史について、現代的なリベラルな視点で見てしまうと、
つい、"上意の優位性=悪い将軍専制" と思い込んで、
義教の死によって、人々は抑圧から解かれ自由になった! 天下に春が訪れた!…という解釈に落ちてしまいますが、
そうすると、その後の世の乱れっぷりや、大乱へと続く過程の説明が付きません。
確かに、義教は峻烈な性格だったので、いなくなったことで人々は、
「もう些細な事で怒られなくて済む!」という "目先の安堵" は得られたでしょう。
しかし、大我(マクロ)を失った世の中で、歯止めの利かなくなった小我(ミクロ)がどんな結果をもたらすか、
それは、もう少し後になってから、思い知ることになります。
 つまり、結論を言ってしまえば、
実際そこで起こったのは、悪政の終焉・権力からの解放などではなく、"合成の誤謬" だったのです。

 (※この時期の最重要情報源、興福寺の高僧・尋尊による『大乗院寺社雑事記』という日記がありますが、
  そこでは、乱世の原因として、公方「天下成敗不足」が嘆かれています。
  また、『長禄寛正記』『文正記』という、ほぼリアルタイムに近い時期に編まれたであろう軍記でも、
  "天下の為に、上意が本来のあるべき姿に戻って欲しい" という、筆者の願いが読み取れます。)

 とすると、この辺の時代の流れを正しく理解する為には、当時の人々の世界観に留意しながら、
義教期とその後大乱勃発までの期間を、対比しつつ捉え直す必要がありそうです。
 (※ "今の感覚" で挑んでしまうと、彼らの行動原理世相もイマイチ理解出来ません。)



「波風大しけ、船内事情」

 それでは、この時期の幕府の中枢の様子について、もう少し詳しく見ていきましょう。
 新たな分国を手にして勢いに乗った山名宗全は、中央政界でも猛威を振るい始めます。
『嘉吉の変』から8年後の文安6年(1449)4月、足利義政(この時はまだ義成(よししげ))は元服し、
次いで征夷大将軍の宣下を受けて、正式に8代目将軍となります。
この時、義政15歳。管領家の畠山持国は52歳、細川勝元は20歳。そして山名宗全は46歳。
義政幼少期は、管領主導で幕政が担われてきましたが、
ここを再出発地点として、上意再建の道を進んで行くことになる訳です。

 …が、しかし、そのハードルはあまりに、そうあまりに高過ぎた。
まず、管領の権限が大きくなり過ぎていて、
上意を頂点に俺ら大名が支える "俺らで幕府" のバランスが崩れてしまっていたこと。
畠山持国は、尋尊の日記で「権勢無双」とか書かれたり(『大乗院寺社雑事記』宝徳3年9月1日)、
細川勝元は、上意無視で勝手な成敗リピート → 義政に咎められたら「じゃあ、管領辞めるっ」
(『康富記』享徳2年5月30日)、
お、おめーら…。まあでも、なんだかんだで彼らは、
  「礼儀を存ずる輩(ともがら)」(『建内記』嘉吉元年閏9月20日)
と言われているように、基本の立場は弁えていて、一線を越えてはいなかったと思われます。
特に、畠山持国は、義政寄りでしたしね。
 しかし、問題は彼らの元に、他の大名たちが派閥を形成しつつあったということです。
その中でも、ひたすら勢力拡大を目論んでいたのが、そう、山名宗全
 彼は、「礼儀を存ずる」畠山細川に対して、
  「濫吹を表すの輩」(『建内記』同上)
と言われていますからね、分国でも中央政界でもその強引さといったら、もう。
 山名宗全が取り込みにかかったのは、細川勝元
文安4年(1447)、年来の希望で、自身の娘(養女。実際は『嘉吉の変』で命を落とした山名煕貴の娘)を嫁がせて、
その関係を強固なものとし、畠山持国に対抗、
幕府内の分裂・抗争を煽ると共に、地位の確立を図っていきます。
 まあでも、畠山持国細川勝元との年齢差も大きいし、義政との関係も良いし、
なんたって名門畠山家、そう簡単に揺らぐ立場ではありません。 …しかし、
しかし、持国さんはやっちまった。
長らく男子に恵まれなかっため、弟の畠山持富を次の家督と定めていたのですが、
やっぱり…やっぱり実子に継がせたい!…との思いを抑えきることが出来なかったのか、
はたまた、一部家臣の強い要望があったのか、
石清水八幡宮の社僧となるはずだった実子を元服させ、家督に定め直すことにしたのです。(文安5年(1448)11月)
 (これが、あの畠山義就(この時はまだ義夏)ですw …え、笑うとこ? まあ、義就は面白すぎるからね。
  ああ、しかし。この "我が子可愛さ" が、後にあんな事やこんな事になるなんて、この時は知る由もなく…
  でも、実子がいるなら初めからそうすれば良かったじゃん、と言いたいところですが、
  実は義就(よしなり)は妾の子で、母の出自が低い為に、家督候補から外れていたらしいんです。
  持国40歳の時の子ですから、きっともう実子は諦めかけていた頃の、まさかのついうっかり展開、
  …だったんすかねw いや、笑うとこ…まあ、いっか。)

という訳で、これが名門畠山家終わりの始まり…いやむしろ始まりの始まり。畠山始まった、みたいな感じ。
この実子義就への家督変更は、家臣の全てが納得していた訳ではなく、
そこに、細川勝元・山名宗全の付け入る隙を与えてしまった訳です。
 享徳3年(1454)8月、畠山持国・義就に対して、
家臣の一部が畠山弥三郎政久(故畠山持富の長男)を擁して攻勢をかけます。
 (もちろん裏で細川・山名が支援。 この時、弥三郎政久はまだ13歳らしい。(『康富記』))
畠山持国は隠居、義就は出家を余儀なくされ、一旦、家督は畠山弥三郎政久に移ります。
 しかし、細川・山名の身勝手な振る舞いを、将軍義政は許しはしなかった。(ま、そりゃそうだよね。)
同年11月、義政山名宗全退治を決定します。
これはどうにか、細川勝元の取り成しで、隠居・謹慎処分で済むことになりますが、
畠山家の家督の方は、弥三郎政久が没落、義就が復活します。
 まあでも、ほんの数ヶ月の出来事ですからね、これで済めば大した問題でもなかったのです。…しかし、
話はこれで終わらなかった。数年後家督はまたひっくり返ることに…ホントどうなってんすか。

 (ちなみに、畠山持国は翌年(1455)3月、58歳で他界します。
  6代目義教が将軍となったとき、既に31歳ですから、父畠山満家を支えつつ、
  義教期の全期間(最後、家臣の画策よる数ヶ月の没落を除いて)と、
  義教没後の "びみょーな四半世紀" の前半(特に公方幼少期の大変な時期)の幕政を支えた、
  それなりに立派な幕臣だったと、私は評価したいと思います。
  この "びみょーな四半世紀" の前半については、細川勝元・山名宗全との対立が深まって行きましたが、
  これも、細川・山名の方が、妙にがつがつしていたことに因る所が大きかったとの印象を受けます。
  畠山持国義政を立てて結構従順だったし、それに父の代からそうなんですが、
  どうも畠山「基本、無為!」が信条らしいw(その点、義教の方針とは相容れない所もあったようです。)
  まあ、名門ゆえの余裕というか、優雅さというか。 でも、戦も強いんですよ。
  とーちゃんの満家は徳高いし、実子義就はぶっ飛んでるし、甥かつ養子の政長は超良い奴だし、
  畠山はいろんな意味で素晴らしいです。 朝倉、大内に並ぶ、超お勧め大名です!…って、また贔屓。すまん。)


 さて、そんな訳で、やりすぎ山名宗全は、一旦幕府の中心から退くことになります。
家督を嫡男山名教豊に譲って、分国の但馬国(現在の兵庫県北部)に下向するのですが、
隠居…っていっても、普通に分国の統治に励んでいたらしい。しかも、4年後に義政から赦免を受けて復帰します。


 (…余談ですが、畠山持国、細川持之、山名宗全は皆、
  6代目義教の代から、永らく幕府内で重きをなしてきた同僚であることを考えると、
  義教がいなくなった途端に、一人暴走を始めた宗全はやはり異端だったと思われます。
  ってか、他の二人は、宗全手のひら返しをどんな思いで見ていたのだろうw
  しかも、幕府が一番大変な時、管領の細川持之をあんなに困らせておいて、いなくなったら今度は、
  跡を継いだ息子の細川勝元に接近し出すとか、これまた見事な手のひら返し
  この、「過去」より「今」を優先する宗全の姿勢は、
  畠山家の次期家督(義就と政長)の件でも、豪快に世の中をかき回してくれます。
  まあ、未来への勢力拡大を欲する気持ちは分かりますが、
  山名家たるもの、もう少し『秩序』『礼節』を尊ぶ精神があってもよかったのではと思います。
  しかし一方で、宗全は、人に勝る "武将としての風格" を備えていて、
  その振る舞いは「既存の社会に新風を吹き込む役割を担った」と解釈することも可能です。
  ただやはり、あまりに威勢がよすぎて世が乱れた部分があるのは、否めないようです。
   (※ただし、「世を乱す」といっても、
    「公家焼き討ち、民衆無差別大量殺戮」とかいった "完全世紀末" な事はしてないので、ご安心下さい。
    そういう残虐な行為をする人物ではないのです。
    …ちょっとやり方が独走気味横暴、ってだけでw
    宗全は、分国の散合(=検地)の実施や、国人との関係強化など、積極的な在地の支配強化を進めており、
    確かにこれは、当時全国的に加速しつつあった新らたな傾向ですが、
    『建内記』に垣間見られる宗全粗暴な振る舞いから察するに、
    おそらくその手法は、ヒャッハー武勇伝にもなってしまいそうなものだったと思われます。
    その勢いが、宗全全盛期の一過性のもであったことからも(先代・次代はまともw)、
    宗全が持つ天性の "武威" が、いかに異色なものだったかが窺えます。)

  それから、細川勝元は、舅・婿の関係から、宗全の肩を持ち続けていましたが、
  宗全のなり振り構わぬ行動が度を越した時、とうとうぶち切れる日を迎えることになります。
  すなわちそれが…『応仁の乱』の "幕開け"。
  この乱は、「細川勝元山名宗全の "宿怨" の対決」のように思われている節がありますが、
  実際は、かなり直前まで二人は "協調・同盟" 関係だったのです。
  また、この二人は大乱半ばで相次いで没し、その翌年、細川・山名の両家が和解に至るのですが、
  乱は即座には収束しません。
  つまり、勝元宗全の和睦で収まる問題ではなくなっていたのです。
  それは、この大乱が途中から「意地の張り合いで変なほうに加速していってしまった」為でもあり、
  また、武士というものが生来的に持つ「道理や仁義へのこだわり」のせいでもありますが、
  一方で、「この先の国・社会の在り方」の模索、という "大局的な" 問題意識が、
  徐々に芽生えつつもあったのです。
  残された大名たちがどんな世界を構想したか、誰が中心的役割を担っていたか…などの続きは、また後でw)

 (※ちなみに、宗全について詳しくは…【川岡勉『人物叢書 山名宗全』(吉川弘文館)2009】
  当時の時代背景を知るのにもお勧めです。)



「もう一つの海難」

 それにしても、こんな一筋縄ではいかない大名たちに囲まれて、
ただでさえ優柔不断な義政は、なんか2秒で撃沈してしまいそうですが、その辺どうしていたのかと言うと、
将軍の近臣(側近集団)に支えられることで、それなりに公方の体裁を保ち得ていました。
 側近というと例えば、申次、奉行衆、奉公衆、扈従する公家、僧侶、大方殿(将軍の母)と女房集団、などなど、
文字通り、将軍の「傍近くに仕える者たち」ですが、
ただ、彼らが権力を持ち過ぎると…その、はっきり言って往々にして政治は腐敗します。
もちろん、まともに幕政を支えていた近臣も多かったと思いますが、
その特権的地位を利用して、口入賄賂政治に走る者が少なくないことは、残念ながら歴史が証明しています。
 (※『建武式目』にも、側近の口入を禁止する条目があり、
  「この条目は代々のものであって、新儀ではない」との注釈があります。
  つまり、昔からそういう政治腐敗は絶えることがなかったのです。)
しかし一方で、自立傾向のある諸大名に対して、将軍の親裁を支えることが出来るのも彼らだけですし、
6代目義教に仕えた満済のように、滅私奉公の精神高い道徳観を持ち合わせた賢臣なら、
公正を保ち、公利を第一とする「天下」の為の政治の実現も、夢ではないのです。


 では、この時期の義政を取り巻く側近たちはどうだったかというと…う、うーんw
側近政治が招く "二大困った展開" 、「側近同士の派閥抗争」「側近諸大名の衝突」、
どちらも派手に起こりました。
 まず、前者について。
将軍の幼少期を支えるのは、その養育係(乳父・乳母)なのですが、彼らは若君の成人後も側近として仕え、
政治に影響力を持ち続けることが多々あります。
また、将軍の母である大方殿も、"前将軍の妻" という地位により、強い発言力を持ちます。
中世は、後家すなわち "前当主の妻"社会的地位が非常に高く、次期家督の決定権すら持ち得る、
というのが特徴です。
 さて、そんな訳で、この頃義政周辺で厳然たる影響力を持っていたのは、
乳母かつ嬖妾の今参局(いままいりのつぼね)。
 (時期としては、義政の元服・将軍宣下からの10年間くらい、つまり1450年代の将軍権威確立期です。)
しかし、義政の生母である大方殿・日野重子(6代目義教の側室)はそれを良く思っていなかった。
…あとは、分かるな?
で、省略したいとこだけど、まあ仕方ない、ちょっとは語るか。


 宝徳2年から3年(1450−1451)にかけて、「尾張守護代の改替問題」が起こります。
当時、管領家の斯波家の分国は、越前国・尾張国・遠江国の3国で、
主な被官は甲斐、朝倉、織田の3家でした。
 (※越前国:現在の福井県北部。 尾張国:現在の愛知県西部。 遠江国:現在の静岡県西部)
この時、当主・斯波義健はまだ元服前で、斯波家の家政では宿老甲斐常治(将久)が中心となっていたのですが、
今参局義政に働きかけて、
現尾張守護代の織田久広(弟)をクビにして、織田郷広(兄)にすげ替えようとしたのです。
 この織田郷広(兄)は、かなりどうしようもない人物だったようで、
以前(7代目足利義勝の代)に、主家の斯波被官の甲斐、織田一族から全会一致で絶交され、
切腹するといいつつ逐電したという過去があるので(『建内記』嘉吉元年12月21日)、
こんな、家臣の意向を無視した「改替話」が持ち上がったら、当然、斯波家中は大反対です。
 しかし、今参局の権勢はすごい。
反対する被官の朝倉を呼び出して切腹させようとしたり、甲斐にも圧力をかけて従わせようとしたり。
これに対し、日野重子は介入を止めるよう義政に忠告するが聞き入れられず、
とうとう嵯峨に引き篭もってまで抗議する騒ぎとなったので、義政今参局の計画は頓挫することになりました。
 (めでたしめでたし…って、おい。
  家臣が大反対する器量の欠けた人物を、コネで無理矢理に登用しようとするとか、
  これまた義教さんが大激怒しそうなことを…。あまつさえ、朝倉に切腹とか、ホント洒落になりませんw)
まあ、その権勢ぶりは世の知れるところとなっていたようで、
享徳4年(1455)正月、洛中に「 幕政を私物化する "三魔" 」の落書が掲げられていたそうな。
 (※三魔(さんま)とは、御今(おいま。乳母今参局)、有馬(ありま。近臣の一人)、
  烏丸(からすま。義政の乳父烏丸資任)の3人を揶揄したあだ名のこと。
   『臥雲日件録抜尤』康正元年正月6日より。)
 (※落書(らくしょ)…中世における匿名のらくがき。)


 しかし、この義政幼少期を支えた乳父乳母の勢力も、幕政から一掃される日迎えます。
これは、『室町殿』(上御所)の再建と深く関連していたようです。
 『室町殿』の再建計画は長禄2年(1458)11月に始まり、
翌年(1459)11月、義政は、それまで住んでいた乳父の烏丸資任の邸宅から、新造『室町殿』に移徙します。
 (つまり、乳父との縁が切れる。)
代わって、義政の『御父』として、主導権を握ることになったのが伊勢家当主の伊勢貞親(さだちか)。
彼は『室町殿』への移徙の直後、政所頭人に就任し(1460)、
以後、幕政(経済から軍事まで幅広く)に深く関わっていくことになるのですが、
享徳3年(1454)に伊勢家の家督を継承してから、既に力は持ち始めていたので、
まあ、『室町殿』への移徙をもって、『乳父』から『御父』への権力移行が完了した、と言えるでしょう。
 (※将軍は、養育係である乳父・乳母とは別に、『御父』『御母』といって、儀礼的な父母を立てます。
  この『御父』は、初代足利尊氏の代から伊勢家当主の役目であり、
  この頃の将軍の嫡男(次期家督候補)は、生まれてすぐ『御父』の邸宅に移され、
  そこで育てられるのが慣例となっていました。
  それゆえ伊勢家将軍家の関係は、他の守護大名家とは違う、ちょっと特別なものがあるのです。
  『御母』も基本的には伊勢家当主の正妻です。)

一方、乳母・今参局はどうなったかというと…。
康正元年(1455)8月、義政の正室(=御台)として、日野富子が迎えられていたのですが、
その日野富子が長禄3年(1459)正月に死産、これが今参局の呪詛によるものとされ、流刑の上、切腹。
そして、今参局の与党とされた4人の側室(いずれも義政の女子を出産)も、御所を追放されました。
 つまり、乳母を中心とした女房集団が一掃され、新造『室町殿』に移る頃には、
大方殿・日野重子御台・日野富子の勢力が、御所の(女房たちの住む所)を独占していたのです。
 (ちなみに、この後、日野富子の兄で日野裏松家の当主・日野勝光が幕政に影響力を持ち始めます。
  応仁の乱中から乱後にかけての、日野裏松家の振る舞いは、まあその、ご存知の通り…)

 う、うーんw この側近集団の動向を追っていると、
ヒャッハー担当山名宗全のことなんて、むしろ可愛く見えくる…。
 (今参局の幕政私物化は過ぎたものだったかも知れんが、切腹って…。
  しかも、既に姫君の母である側室をまとめて追放とか。 いや、今の感覚で見ちゃいけないが、
  室町時代って、あんまりどろどろした話少ないので、これはその…う、うーーーん。)
まあ、山名宗全の秩序の乱しっぷりも凄いですが、
側近政治による、利権の独占口利きの横行賄賂を全く憚らない様子(むしろ積極的に要求)には、
ああ、世界のルールは一体どうなってしまったんだ…と思わずにはいられません。
 「政治は、私曲でするもんじゃない! 正義でするものだ!!」
なんて叫んでも、綺麗事でしかないんでしょうか。
でも、『御成敗式目』とか『建武式目』を見ていると、武家政権が理想とした政治って、
本当に清廉で、誇らしいものなんですよ。
それでも、その理想を実現しようとした者たちが敗れ去って行ったことを考えると、
遠く望んだ『彼の岸』は、やはり愚かな夢でしかないのでしょうか…なんか、自信なくなってきますw



 ただ、何度も言いますが、側近たちによる幕政も、決して悪い面ばかりではありません。
『嘉吉の変』後、公方と諸大名の関係が崩れ始めるこの時期、
その代役として彼らが台頭してきたという側面もあるのです。
特に、代々政所頭人を務めてきた武家である伊勢家は、将軍の『御父』という関係から、
政治面でも儀礼面でも多くの知識を蓄積していて、
諸大名が自立性を高めていく過程で、彼らが幕府公方を、あらゆる面で献身的に支えていくことになるのです。
 (※6代目義教の側近満済の幕政への関わり方は、あくまで "内々" のものであり、
  公方と諸大名の良き媒介として政務の円滑化を図る、といったタイプのものでしたが、
  伊勢家は、政所頭人という明確な地位のもと、幕政に直接的・主導的に関わっていきます。)

とはいえ、伊勢貞親は…その、有能だったのは確かですが、豪腕すぎるところがありまして、
公方を立てるあまり、このあと、諸大名との対立を激化させてしまうことになるのです。

 (※権力を持ち過ぎた近臣と、諸大名との衝突は、この時代頻繁に見受けられます。
  比較的安定していた4代目足利義持の代も、ひと騒動ありました。
  大名ってのは、自立傾向があって、時に公方に背くことも厭わないわりに、
  公方と大名との間に立ちはだかって、権力を握る者がいると気に食わないようですw
  4代目義持期 "大名衆議" に重きが置かれたといわれますが、
  それは、"管領が諸大名の意見をまとめ、それを上聞に達する" といった制度的特徴があるため、
  公方と諸大名の関係は、管領を介した間接的なものとなり、相対的に公方の近臣の立場が上がります。
  まあ、義持は結構「良きに計らえ」系の公方だったと思います。
   (それゆえ、広く人々に愛されていたように思います。 ※参照…『建内記』正長元年正月18日)
  対して、公方が主導的立場にあり、諸大名との間により直接的な関係があった6代目義教期は、
  近臣 vs 諸大名も、そして諸大名同士の派閥争いも、目立ったものは起こっていません。
  どっちがよかったの 、実際?…と、彼らに尋ねたくても、今はもう叶いませんが、
  諸大名や当時の世相が求めていた "理想の公方様" ってのは、本来どんなものだったのか、
  というのは、興味深いテーマだと思います。)



さて、この時期の側近の動向について詳しくは、
 【家永遵嗣『三魔』(『日本歴史』 第616号 1999.9)】
ああ、なんか義政も大変なんだな…とか同情したくなる。でもこれ以降のがもっと大変かw

それから、伊勢貞親のミラクルな幕府財政再建については、
 【早島大祐『首都の経済と室町幕府』(吉川弘文館)2006】
            …の、第二部第一章「足利義政親政期の財政再建」他
幕政を牛耳ったとして批判される伊勢貞親ですが、実はかなり有能なんです。
まあ、当時の記録にも批判的な評価が多いし、私も初めは「貞親てめぇーww」としか思っていませんでしたが、
改めて史料や文献を調べてみて、ちょっと考えが変わりました。 もう少し冷静に考察すべき人物です。
少なくとも、政所頭人としての幕府への貢献度は評価されていいと思います。

しかし、軍事に関してはちょっと強引なところもあったようで…
 【吉田賢司『室町幕府軍制の構造と展開』(吉川弘文館)2010】
            …の、第二部第四章「足利義政期の軍事決裁制度」
といっても、多方面に渡って計略をめぐらし、実に良く働く俊才な部下であるのは確かなんです。
ただ、「前線の兵士の気持ちを分かっていない」ところがあったのには、
おめーはマ・クベかよ!と言いたくなりますね。


 (※この3つ目(最後)の文献は、実は6代目義教期の幕政についても詳しく取り扱っています。
  といっても、あくまで主眼は「室町幕府の前半戦から応仁の乱前までの "幕府の軍事面" 」であり、
  その一環として義教期も扱っているだけで、他の時代と同様、中立的制度的な分析を試みているものですが…
   (特定人物に肩入れしていない、全く以て公正、実証的な学術論文集です)
  いやホント、義教はすごいww 確実にチート公方です。
   (※チート○○…多方面に渡ってあらゆる才能を有し、
    しかも全スペックが反則レベルの高値を示す状態をいう。 ……使用例:チート武将・今川了俊。)
  なんかもう、悪政とか暴君とかいう "愚君" イメージとは一体何だったのか?
  「独裁暗君の失政がー」とか上から目線でディスってたら、やばいです。
  まあ、頭の良い人のやる事が周りから理解されづらいのは、いつの世も同じですね。
  まさに「万人の凡慮、及び難し」。
  訴訟、軍事のみならず、実は文化振興にも一役買っているし、
  これはいよいよ、京都の禅寺で座禅でも組んで、一旦頭を真っ白にする必要があります。
  特に、時代の趨勢に合わせて、臨機応変に諸制度を改めていく様には感服します。
  例えば、この時期、各地で紛争が多発し、頻繁に軍事動員が行われたのですが、問題となるのはその恩賞
  南北朝の動乱期のように、敵方の没収地を大量に確保して恩賞に当てることが出来た時代とは訳が違います。
   (かと言って「主君への忠節は当たり前!見返りを求めるな!」なんて態度では将軍失格ですね。)
  そこで義教は、多くの感状を発給すると共に、戦功の褒賞として、太刀といった "武具" を下賜することで、
  武士たちの忠功に誠意をもって応え、その精神面への配慮に努めたのです。
  どうよ、「マ・クベとは違うのだよ、マ・クベとは!」と言わざるを得まい!
  ま、興味がある方は、一回解脱(げだつ)してから読むといいですよ。)


 (※ついでに一言、
  「義教は "後半" になるにつれて独裁傾向が強まっていった」とか、
  「(治世の半ばで)諫める重臣が相次いで他界し、義教の独走に歯止めがかからなくなっていった」
  とは、よく言われますが、
  それも一面では正しいと思いますが、うーんどうだろう、とも思います。
  と言うのも、義教期 "前半" について、
  諸大名への頻繁な諮問や、彼らの幕政への深い関与を知ることが出来るのは、
  実は、『満済准后日記』に、その過程が詳細に記述されているお蔭なんです。
  しかし、この日記は永享7年(1435)4月までしかありません。
  つまり、それ以降の "後半" については、"政策決定の実態を伝える史料" が残されていないが為に、
  「 "前半" に比べて独裁がエスカレートしたように感じられてしまっている "だけ" 」
  というオチかも知れないのです。
  実際、少ないながらも、(他の日記で)諸大名の意見によって方針が決定されたことが知れる事例はあるし、
  義教が大和国に2回、関東に1回、自ら出陣しようとした時は(永享9年、10年)、
  大名たちの強い諫言によって止められているんです。  大名「絶っっ対、だめ!」 義教「……。はい」
  確かに、"後半" につれて公方の発言力は増していっただろうけど、
  諸大名が幕政に参加する体制には、それほど変化はなかったんじゃないかな、実は。 …と思う。)



「御台に潜む渦」

 さて、ついでなので、ここで日野裏松家の話も少ししておきますと、
この公家の家系は、"名家" の家格である日野家の分家に当たります。
代々、将軍家の正室を日野裏松家から迎えるという先例は、
3代目足利義満が、日野業子を正室とした事に始まりますが、
この頃から既に、政界(朝廷でも幕府でも)における一族の権勢は、人々の顰蹙(ひんしゅく)を買っていたそうです。
 (まあ、上流貴族からしたら、やはり不快に思う事もあるでしょう。)
4代目義持の代から既に、やや日野流との関係の悪化は見られますが、それでも、
6代目義教が将軍となったとき、両政界に占める日野一族の勢力は相当なものでした。
よく、「義教は日野裏松家を弾圧した」と非難されますが、ちゃんと背景も考慮したいところです。
 義教の最初の正室は、大方殿日野栄子(義持の正室)のたっての希望で、その姪の日野宗子と定められたのですが、
当時の日野一族による利権掌握の現状を勘案すれば、義教が、
 「頗有不受之気色」(めっちゃ気が進まない…)  (『建内記』正長元年6月21日)
だったのも、理解出来ます。
それでも、中世社会における "大方殿の権威" は絶大であり、理屈や道理を挟む余地はなかったのです。

 とはいえ、大方殿日野栄子浪費は、その負担を強いられていた洛中の土倉が嘆き悲しむほどで、
何とかしないと、と思った義教が、畠山満家に究明を要請したところ、
日野栄子と、その召し使っている女中たちへの税金の重さで、
 「誠京中諸土蔵周章歟、…尤不便候」(京中の土倉がうろたえてました。かわいそす…)
な状態であり、山名時煕細川持之も同意見で、
 「可被省略條可為御善政」(減税すべきです、善政をお願いします!)(『満済准后日記』永享2年10月4日、10日)
との回答でした。
 まあでも、最初の正室日野宗子との不和は、日野家がどうとかではなく、
お互い個人的に上手くいかなかったことが原因だと思います。
 義教が還俗して数ヶ月後に、嫁取りの儀が行われたのですが、
翌年9月「春日社参詣」では、「(御台が)不快事出来」(『看聞日記』永享元年9月22日)で、
御台日野宗子は同行を中止しています。
 (※この「春日社参詣」は、公家武家さらに大方殿女房衆総出で、一週間に及ぶ大規模な行事であり、
  御台の不参は、かなり異例だったと思われます。)
また、その翌々年の正月の管領邸への御成では、またも御台日野宗子は欠席で、大方殿日野栄子だけが出席し、
 「当年御台聊不快事在之歟」(なんか、御台様は不快らしい…)    (『満済准后日記』永享3年正月8日)
と、満済以下の護持僧たちは困惑しています。
 (さらに、その1年前から、なんか義教は可哀相な事になっていたようですが、詳細はまたどっかでw)
そのような状況の中で、この年(永享3年(1431))の半ば頃から、
上臈(じょうろう。御所に仕える高貴な女性)であった正親町三条家出身の三条尹子が、
「新御台」とされるのです。
 (…と、そんな経緯があるのです。 なんか責められない、というか、
  むしろ、この時代にこの展開は、ちょっと "いい話" だと思いますw
  また、後の話(永享12年(1440))ですが、
  側室の日野重子(日野宗子の妹。7代目義勝と8代目義政の母)が邪気で病んだとき、
  それが下御台(※下御所に居た、ということ)である日野宗子の霊気だと噂され、
  その慰撫の為に、義教は二万疋(=二百貫)を贈っています。(『建内記』永享12年正月23日)
  つまり、不和となった後も、日野宗子は御台の地位や御所を完全に追われた訳ではないし、
  それなりに丁寧な扱いを受けていた事から、
  義教による一方的な疎外ではなく、仕方のない破局だったと言えるのです。)

 (※ちなみに、公家の三条家の嫡流は「転法輪三条家」(清華家の家格)であり、
  義教の御台三条尹子とその兄三条実雅「正親町三条家」(大臣家の家格)はその分家です。
  さらに、正親町三条家の分家である、「三条西家」(大臣家)も重要です。覚えておきましょう。)



 日野裏松家への "弾圧" として取り上げられる事例として、
まず、正長元年(1428)5月、日野裏松家当主の日野義資(最初の御台日野宗子の兄)の近江国の所領を、
烏丸豊光(日野義資の叔父)に与えた問題がありますが、
これは、4代目義持の代に、烏丸豊光が、その所領の代官職を請け持っていた時期があり、
今また、烏丸豊光が困窮を訴えてきた為、元の如く代官職を認めたところ、
大方殿日野栄子が、「日野一流を滅ぼすつもりか」と抗議してきたのであり、
さらに、日野義資は三河国の和田庄も失いますが、これは年貢の無沙汰の為であって、
義教としては、
 「非始終可減云々儀也、…是又依道理之故也」
  (いや、滅ぼすとかそういうんじゃなくて、どっちも道理を重視した結果であってだな…)
というのが真意でした。 (『建内記』正長元年5月23日、28日)
 (この所領が、日野裏松家の収入に占める比重は分かりませんが、烏丸豊光も一族(叔父)なんでは…とか思う。)
ともあれ、この烏丸豊光の代官職の復権は、
当時の慣習である「代替わり恩赦」の一環であり、
日野裏松家 "弾圧" と解釈するのは無理があります。
 (史料を読む際は、時代背景への注意も必要なので難しい…とは思いますが、
  日野栄子への言い訳に苦慮した義教は、やっぱ可哀相だと思うw)


 また、有名な永享6年(1434)の事例は、
2月9日に、長男義勝誕生した時のこと(母は、側室の日野重子。日野義資と日野宗子の)、
御所に人々が、若君誕生の祝賀に訪れたまではよかったのですが、
日野裏松家の当主・日野義資のところにまで多くの人が祝賀に訪れました。
…これを、義教は許さなかった。
結果、日野裏松邸に赴いた多くの公家僧侶が、譴責を受けたり所領を没収されたりと散々な目に遭うことに。
まあ、満済も「お祝いの時分に、それは宜しくありません」と諫言しているように、
日野義資が籠居中だったとはいえ、厳密すぎる沙汰だとは思いますが、
義教の道理としては、
「将軍家の跡継ぎを生んだ日野裏松家と良好な関係を築いておこう」という、
縁故主義的な考え方が許せなかったのでしょう。
 (「尊卑親疎(=身分やコネ)」に依らない訴訟を目指していた義教らしいと思います。
  しかしこの時代、その崇高な精神は、誰にも理解出来ないと思います。)
なので、潔癖すぎるのは確かですが、
この処罰があくまで、 "日野裏松家" に対するものではなくて、
"日野裏松家との縁故を期待した者たち" に対する断罪であったという点を、取り違えてはなりません。
日野重子(日野義資、日野宗子の妹)を側室としている(最後まで疎遠になっていない)ことからも、
また、この義勝の誕生を誰よりも喜び、母子を見舞う為、異例の産所への当日御成を決行していることからも、
一概に、"日野裏松家への弾圧" と捉えるのには疑問が残ります。
 (※当時、御所とは別の館が「産所」とされましたが、これは、昔は出産が "穢れ" だった為です。
  なので、将軍による出産直後の母子への見舞いは、相当に異例…というか、
  後にも先にも、この時だけだったようです。(『御産所日記』より))
ようは、将軍家との血縁関係がコネの温床になることや、特定一族による利権の独占を否定しているのであって、
日野裏松家の完全排除を目論んでいた訳ではなく、バランスを求めていただけだと思います。
 (これを "弾圧" ととるかどうかは、個人の価値観にも依ると思いますが、
  感情に任せた無意味な迫害とは違うということも、認めるべきでしょう。
  …というかそもそも、いくつかの裁許の事例を詳察すれば、
  義教の判断の基準が、"好悪" ではなく "是非(道理)" であることは、割と自明であって、
  「嫌いだから弾圧した」と解釈する方が無理があるのです。
  それなのに、延暦寺の件でも、日野家の件でも、また不義や緩怠の処罰にしても、
  すぐ「弾圧!」 と言われてしまうのには、ああ、将軍も大変だな…とちょっと同情するw)


 ところで、この日野裏松家当主日野義資には、更なる不幸が降りかかります。
この4か月後、日野義資邸に強盗が押し入り、盗みの上に殺害されてしまうのです。(犯人は不明)
まあ、これを公方の命令だと密かに疑う者がいるのは、当然の成り行かと思いますが…。
 (実際、そんな話を公家の高倉永藤が皆の前で語り、それを追及されたら「知らない言ってない」と否認して、
  でも、証人が数十人いたから敢え無く、九州薩摩国の油黄島(※)へ流罪となりました。
  「不思儀の虚説」「希代の虚言」(by満済)です。(『満済准后日記』永享6年6月13日)
    (※…現在の鹿児島県の硫黄島。 東京都の硫黄島とは違う。))

 しかし、個人的な意見ですが、
はっきり言って義教がそんなせこい手を使うかな? と思います。
強盗装って、当主をあからさまに殺害して、それが "日野裏松家の弾圧" ? うーん、ちょっと稚拙では。
基本的に、義教の行動は理に適っていますからね、よく見ると。
何か罪があったなら、正々堂々と断罪すると思うし、罪の無い処刑はしないと思います。
 (満済は、貞成親王も認める義者ですし、
  間違っている時は義教に対して諫言も辞さない人物ですから、
  上記のように、公方の命令による暗殺と言う風説が、高倉永藤の「虚言」「虚説」であるのは事実でしょう。
  しかし、ではなぜそんな虚説を、高倉永藤は大勢の前で語ったのか?
  彼は「公方の命令による暗殺だと言う事を、内々(義教が)自分にお話になった」と皆に吹聴したそうですが、
  義教からしたらもちろん「え、そんな話した覚えないけど?」だったので、
  高倉永藤に使者を遣わせて真相を尋ねたところ、
   高倉永藤「そんなこと言ってない」→ 大勢の証人達「え、もろ言ってたじゃん」→ どう見ても有罪
  という流れですが…うーん、
  わざわざこんなやばい虚説を吹聴するとは(実際、満済もかなり不思議がってる)、
  なんだか、平常心を失うほどの動揺焦りを感じさせますが、
  何か後ろめたい事があったのか? それとも真犯人を知っていてそれを隠す為か?
  ちょっと深読みをしてしまいたくなる事件ではあります。)

この事件によって、日野義資の嫡男・日野重政は遁世、
 (まあ、公方を含め、誰に命狙われているか分からないとなったら、恐ろしいですよね、不憫だと思います。)
そして、残された所領や邸宅は、日野一族の烏丸資任に与えられます。
 (※烏丸資任は、烏丸豊光の子。後に、日野重子の男子2人(1人は義政)を自邸で養育することになります。
  日野家の弾圧…ってか、むしろ温存…。  まあ、さすがにそれは極論ですが、
  いろんな見方が可能であることは、常に頭の片隅に置いておくと、歴史は十倍楽しくなります。)




 さて、長くなりましたが(ってか、途中から義教の話になってしまった、すまんw)、
重要な点は、中世での "前当主の正妻" の権威は想像以上に大きいということです。
それは、次期家督の決定権や、配下の武士たちへの影響力など、前当主に匹敵するものとして、
社会に認識されていました。(つまり、みんなが当たり前に従う。)
 なので、気丈で、武士の心をよく理解し、「さすが、武家の妻!」と言いたくなる様な女性は、
家中を立派に支え、治国に貢献した一方、
目的を誤ると、その強力な権力は、社会を簡単混乱に陥れてしまうことも可能なのです。
 それから、将軍家との血縁関係というものが、非常に強い影響力を内包していて、
気を付けないと、あっという間に政治腐敗に繋がってしまうということです。
6代目義教の代に、一旦影を潜めた日野裏松家は、新造『室町殿』への移徙とともに、
急速に勢力を復活させることになりますが、その後どうなっていくかは…。うん。


 (※ちなみに、義教の「新御台」三条尹子は、日記に度々「内助の功」的エピソードが記される良妻で、
  また、兄である正親町三条家当主・三条実雅も、確かに義教からは優遇されていましたが、
  幕政を私物化する、といった傾向は見られません。(所領の管理に関しては、有能だったようです。)
  まあ、『嘉吉の変』では、
  公家でありながら刀を取って戦い、傷を負ったような人ですから、
  "我が身"(=自己利益)より優先すべきものがあることを知っていたのだと思います。
  ちなみに、一言に「太刀」と言っても、
  武士が実戦で使うものから、公家が儀式で佩刀するものまで、その様式は様々です。
  (博物館にあるような、いわゆる "宝剣" はすごいですね。)
  この時、三条実雅が振るった引き出物の太刀は、「金覆輪」(きんぷくりん)といって、
  金色の装飾を施したもので、およそ実戦に使用されることはないだろう代物です。
  なので、「突然の暗殺劇金覆輪を抜いて戦う公家」…ってなんかすごいシチュエーションだと思いますw
  それから、正室の三条尹子は、
  義教の死後 "大方殿" として御所に残ることも可能でしたが、
  出家して身を引き、亡き夫の冥福を祈ることに余生を費やしました。
  8年後の宝徳元年(1449)8月9日他界。 享年38歳。 当時でも、女性としては少し早いですかね。)







 という訳で、新造『室町殿』への移徙(1459年末)を画期として、側近集団が入れ替わり、
幕府はその装いを新たにして、後半戦へと突入していくことになります。
 後から振り返れば、この1460年という年が、
室町幕府の前半戦が終わり、後半戦が始まる節目となった訳ですが、
この1460年周辺で起こった変化は、実は側近集団の入れ替わりに止まらず、
大名たち関東の方でも、まさに節目の名に相応しい出来事が相次いだのでした。



「それは東国の渚から」

 では、まずは関東から。
『永享の乱』『結城合戦』の後、鎌倉では公方の不在、上杉憲実が関東管領の続投を固辞…と、
トップの定まらない状況が続いていた訳ですが、
 (※これまでの経緯は、「2-5 終章・室町幕府の前半戦「鎌倉のこと」」を参照。)
やがて、鎌倉公方は足利持氏の遺子(後の成氏)、
関東管領は上杉憲実の嫡男・上杉憲忠(山内上杉)に決定し、
宝徳元年(1449)、態勢を整えた鎌倉府が復活します。
…しかし、それは動乱の再開でしかありませんでした。
それまで逼塞していた故足利持氏方の武士(関東の伝統的豪族層)たち
新鎌倉公方・足利成氏のもとに続々と結集し、関東管領上杉家との対立が俄かに再燃、
そして翌宝徳2年(1450)4月、山内上杉家の家宰・長尾景仲と、扇谷上杉家の家宰・太田資清が、
足利成氏方を襲撃します。
これは関東管領上杉派鎌倉公方派の合戦(『江ノ島合戦』)へと発展し、上杉派が敗北、
しかし、京都の幕府の取り成しで、ひとまず表面的には和睦します。

…ってゆーか君たちさぁー、いいかげん疲れたでしょ?
そろそろ、穏やかな毎日を過ごしたらどうよ。
 確かに、公方を取られた上杉派が焦る気持ちも分かるよ?
鎌倉公方派にしたって、
新公方足利成氏が、父の故足利持氏に忠誠を尽くした関東豪族層の武士たちの期待に精一杯応えようとする、
その健気さも分かる。
でもいくら室町だからって、そんな律儀に "水面下は世紀末" 状態でいなくたっていいのよ?
せっかく和睦もなったことだし、これからは手に手を取り合ってラブ&ピースな日々を…
……って、んなわけにはいくかぁぁーーーーっっ

    だって彼らは、 東 国 武 士  !!!

漢のなかの漢! "水面下" とかけち臭いこと言わない、むしろ、好き好んで世紀末!
んじゃ、ぼちぼち本戦開始と行きますね。

    1454年スタート『享徳の乱』 ファイっ!!

享徳3年(1454)12月、鎌倉公方派が関東管領上杉憲忠を謀殺、これが全ての始まり。
享徳4年(1455)正月、両軍戦闘開始! 鎌倉公方派の勝利。上杉方かなり痛手。
そして3月には、足利成氏がその本拠地を下総国(現在の千葉県北部+茨城県南部)の古河(こが)に移したことで、
以後、鎌倉公方古河公方と呼ばれることになります。

  『古河公方・足利成氏』誕生の瞬間であります!

いや〜ワクワクしてきますね。 東国は熱いですね、ほんと。
 まあでもね、これがもし単なる下克上で、主君討って俺様の天下だぁぁーーとかいう、
理念もビジョンも器も無いのに、欲心だけは旺盛な輩の "成り上がりゲーム" だってんなら、
面白くもなんとも無いんですが、
この時代の東国の動乱というのは、単なる "鎌倉府の支配体制の崩壊" ではないのです。
なぜって、やっぱり彼らは東国武士。 主君への忠義という武士の基本をおさえてる!
動乱の中にも、公方を頂点とした "侍の秩序" が存在するのです。
…ま、確かに「おいおい、もうちょっと落ち着けよ」とは思いますが、憎めないヒャッハーってとこですかね。


 とはいえ、やっぱり動乱動乱であって動乱以外の何ものでもないので、
京都の幕府は反乱鎮圧のため対策を打たねばなりません。
公方派による上杉派への攻撃はすなわち、中央である京都の幕府への反乱、天下の泰平を脅かす行為ですからね。
享徳4年(1455)3月、在京していた上杉房顕(憲忠の弟)を新たな関東管領とし、
成氏討伐の総大将として関東へ出陣させたのを皮切りに、
関東周辺の諸大名にも召集をかけ、9月には治罰の綸旨も下されたのですが、
戦況は長引き、やがて両軍は対峙したまま膠着状態に陥っていきます。
 「強ぇ…、公方と東国武士がタッグ組むと強ぇ」(唖然)
すっかり困った京都の幕府。ちきしょう足利って何なんだよどんだけカリスマあるんだよ我ながら歯が立たねえよ。
…とそこで閃いた。(ピコーン)
 「そうだ! こっちで新たな鎌倉公方用意しちゃえばいいんだ、足利でwwwww」
という訳で、義政の兄弟の中から人選が行われ、
関東へ飛ばされ…じゃなかった、関東鎮圧の栄誉ある任務を任されたのは、

   天龍寺香厳院主、改め、還俗して足利政知(まさとも)です!

父の義教と同じ還俗公方ですね。 だから、やっぱり真面目ですw 一直線に任務を全うしようとする。
でも…、結論から言ってしまうと、この作戦はグダグダになります。
なぜって、命令を出す京都の奴等がどーしようもなかったからwww
 はじめは、奥州・出羽・信濃・甲斐・駿河などなど大規模な軍勢派遣を計画していて、気合は入っていたんですが、
第一、味方であるはずの上杉方とすら、あまり上手くいかなかった。
いや、関東管領である宗家の山内上杉の方はまあ好印象なんだけど、
分家の扇谷上杉の方はボイコットみたいなことしてきましたからね。
 (京都から足利政知に随行していた犬懸家上杉教朝が、板挟みになって自害しています。…不憫。)
 結果、鎌倉公方として関東に派遣されたはずの足利政知は、ついに鎌倉に入ることはなく、
伊豆の堀越(ほりごえ)に御所を構えることとなったので、以後、堀越公方と呼ばれるようになります。
…ああ、かつては武家の聖地として華やいだ "俺らの鎌倉"  ―――
今や公方不在…どころか、公方分裂。 古河公方堀越公方ってどんなギャグだよ。
動乱の幕を下ろそうとしたら、新たな世界の幕が開いちゃったよ。 どうすんだよこれ、マジで。
 でもね、実は堀越公方はこの30年後、更にステージが上昇しちゃうんだな、これが。 (←ここ重要、超需要!
ま、京都もこれから応仁の乱の準備で忙しくなるし、しばらくはこのままグダグダしていて下さい。

さて、堀越公方に関する文献は、
 【松島周一『堀越公方と鎌倉幕府―奉行人布施為基の軌跡―』
        (日本文化論叢/愛知教育大学日本文化研究室編 第18号 2010年3月)】
堀越公方の足利政知については、なんか悪い評価を目にすることがありますが、
謙虚に一途に頑張っていたと思います。 尋尊も日記で褒めています。
京都の指示がイミフだったのが元凶なんだよ!ww  この論文の政知評価に、全面的に同意します!




 では続いて、京都のゴタゴタに話を戻しましょう。



「斯波にはヤツがいる!朝倉孝景」

 まずは、足利家に次ぐ名門中の名門! 斯波(しば)家について。
斯波家は、管領家の中でも頭一つ飛び抜けた存在です。(次いで畠山。細川は本来ちょっと低い。)
管領(※当初は執事)ってのはそもそも、足利将軍家の部下という立場の職ですから、
もと足利と並ぶほどの家格だった斯波は、本来「管領(執事)の職には相応しくない」とされていたくらいなんです。

 当時の斯波家の分国は、越前国・遠江国・尾張国。 主な被官は、甲斐、朝倉、織田
越前と遠江守護代が甲斐、尾張守護代が織田ですが、甲斐と朝倉は、基本在京して政務を補佐していました。

 でも、そんな斯波もこのところ家督が早世することが相次ぎ、なんか頼りない感じに…。
…しかし、心配は要らん! 被官に気合の入った奴がいるから大丈夫。
この頃中心的存在だったのは甲斐常治ですが、
もう一人、すんげースペックのハイエンド武将がいた。 …それが、朝倉孝景(たかかげ)!!

 (はい、我らが英林様、満を持して登場です!! (※英林(えいりん)…孝景の入道後の法名)
  ぬおぉぉーーーっ、盛り上がってきますね! 興奮してきますね! 私だけだと思いますが。
  朝倉孝景はめっちゃ名武将です。
  (ガチで本人が戦う)がむちゃむちゃ強いのは当然のこと、
  努力家で昼夜を問わず修養に励み、文芸に秀で、道義を重んじ、武士たる信念もまた熱く、
  すべてにおいて気持ちいいくらい尊敬出来る人です。
  『応仁の乱』では、ちょっと(いやかなり)誤解されてる部分がありますが、
  安易な下克上したり、利己的な野心で抜け駆けするような人間じゃありません。
  真実を知れば、きっとみんなも好きになる! それが、我らのえーりん様。)


 さて、斯波家の家督に話を戻しますと、
享徳元年(1452)9月、当主の斯波義健が18歳で夭折してしまい、斯波の宗家の血筋は絶たれてしまいます。
ああ悲しいかな名門斯波 & この後どうしよう…
結果、それまで宗家の後見的役割もしていた分家の斯波家から養子を迎え、
斯波義敏(よしとし)が宗家の家督を継ぐことになりました。
 ここまでは問題なかったんですが……。 みんなも何か嫌な予感するでしょ? そのとーり!
程なくして、被官の実力者甲斐常治との雲行きが怪しくなってきます。
 この分家の斯波家は、もともと越前国の大野という所に本拠地があり、在地を介して直接繋がる国人もいて、
越前守護代の甲斐とは利害が衝突し易かったのです。
 (あとは、年齢差もあるかな。 家督継承時…斯波義敏18歳、甲斐常治50代くらい、ちなみに朝倉孝景25歳。)

 まあでも、恐らくそれだけではなく、斯波義敏の言動を追っていると…どうもこやつは主君の器じゃないw
かなり自己中だし、その心に武士っぽさが感じられない。(晩年は京都で公家と遊ぶ日々w)
永らく斯波家の家宰を務めてきた甲斐常治との衝突は、
越前を舞台とした『長禄合戦』(1458−1459)へと発展してしまいます。
 当時、足利政知の関東下向に合わせて、斯波勢にも出陣命令が下されていたのですが、
斯波甲斐も、微妙にぐずぐずして出発しない。 なぜならそれは…
越前のやばさ2秒前くらいになっていたから。
でも、2秒なんてすぐ経っちゃうよね。
…という訳で、関東出陣そっちのけで、

      『  斯波義敏  vs  甲斐+朝倉  』  んーーーーっ ファイっ!!

朝倉甲斐側につくのですが、斯波義敏の言動を見れば納得ですね。
 (将軍義政も基本的に甲斐側を擁護。 だって、こやつ言うこと聞かんのだもの。)
ちなみに、朝倉家越前の一乗谷という所に本拠地があり、この合戦は死活問題。 だから気合十分!
ってか、ただでさえハイエンドな孝景さんオーバークロックしたもんだから、
そりゃもう結果は言わずもがな。
この合戦の結果は、勝ったとか負けたとかそんなレベルじゃない。もう孝景だった。この合戦は孝景だった。
『長禄合戦』の結果は孝景、これでいいと思います。
途中、甲斐常治が病に倒れたのもあって、
以後、朝倉孝景は、越前でも斯波家中でも、いやもう天下でその存在感を高めて行きます。

 一方斯波義敏は、関東の出陣命令無視して越前で勝手な事やったもんだから、
義政に怒られるは、合戦じゃボロ負けするは、義政が仲介した和睦の提案を拒否るはで、
結局、斯波宗家の家督の座を追われて、周防国大内さんのところに逃げていきました。
 (※ちなみに、越前で実際に戦闘を繰り広げていたのは、
  甲斐敏光(甲斐常治の跡継ぎ)&朝倉孝景と、対する "義敏方" の武将(堀江とか)であって、
  斯波義敏自身は前線には出ていません。 そりゃそうだ。)


 ってか、義敏てめーww おめーのせいで足利政知関東の第一戦で敗北したんだぞ、どうしてくれんじゃいww
このあと、甲斐敏光朝倉孝景がちゃんと駆けつけたけどさ。 ったく、足引っ張りおって!
甲斐に喧嘩売って越前引っ掻き回して結果孝景の一人勝ちとかもう、
憎らしいんだか有難いんだか分かんねぇやつだな、ほんと。
ま、大内さんのところは文化も発展してるし、歴代当主は名将ぞろいだし、大人しくお世話になってなさいよ。

…しかし、やつは戻ってくる。 ―――『応仁の乱』の招待状が届いたから。
ってか、誰だぁーーーっ! こんな奴に招待状出したの誰だよっ!?



「ダブルキャストで畠山!義就と政長」

 さて次は、畠山家の(笑えない)お話の続きです。
ひと騒動後家督に返り咲いた畠山義就(よしなり)は、天下の中心幕府でお勤めに励む日々を送っていました。
…ってゆーか、その後の義就の、
  "豪猛にしてアウトロー、修羅界の帝王にして稀代の名将"
というイメージからは想像もつかないかもしれませんが、
本来、義就名門畠山家の御曹司ですから、
京都の上流階級(公家・僧・武家の上層)でもひと目置かれる注目の貴公子、まさに王子だったんですよ。
ありえねぇーww きれいな義就とか、きめぇwww…と思うでしょ?
うん、たぶん本人も、自分の中の荒ぶる魂にうすうす気付いていたと思いますよ。
だって、
  畠山義就「よう、おめーら出陣な! これ上意だからwww」
  将軍義政「ちょ、おま、そんなこと言った覚えねーよ!?」
みたいな感じで、適っ当ーなことやって怒られていましたからね。
でもこれは、将軍を見下していたとか、傀儡にしてたとかじゃなくて、
怒られれば、「すみませんすみません許して!ww」と素直に謝っちゃう訳で、
その辺やっぱり畠山家の御曹司『礼節』は弁えていたんです。
 (畠山義就は、戦国大名第一号といわれることもありますが、
  決して、幕府に反抗して美学のない殺戮や反乱を企てていた訳ではありません。
  人生の道は外れたけれど、武士の道からは外れていないのです。
  勇ましさの中にも美学はある、そこが好きなところですw)

 とはいえ、あんまり適っ当なこと繰り返していると、足をすくわれかねません。
義就よ、あの "ひと騒動" を忘れたのか?
思い出せっ! 細川勝元山名宗全に嵌められたあの忌まわしき過去を …って、時すでに遅し、ちーんwww
  長禄3年(1459)7月、没落していた畠山弥三郎政久赦免される。
この動き…もしや?
まあ、細川勝元の意見は反映されているでしょうが(『経覚私要鈔』長禄2年6月19日)、
山名宗全はこの前年、4年ぶりに幕府に復帰したばかりなので、今回はシロのようです。
それより、この頃義政の側近中の側近で、大名の勝手な行動を許さなそうな人と言えば…(『応仁略記』)
そして翌年、
  長禄4年(1460)9月16日、義就在国隠居を命じられる。
がーんww
一応、弁解を試みはしたようですが、時は既におすしであることを悟った義就は、しずしずと荷物をまとめます。
畠山家の家督は、この時義就の養子となっていた畠山政国(能登の畠山家出身)に仰せ付けられるのですが、
しかし、義就が分国に下向する際、被官が自分の宿所にかけた火がちょっと広がってしまったらしく、
それが公方の気に障ったのか、なんか知らんけど数日もしない内に、家督は別の畠山のところに転がって行きました。
という訳で、そんな家督おにぎりをキャッチした果報者はこの人!

  長禄4年(1460)9月26日、畠山政長が幕府に出仕を果たす。

 (うおおーーーっ! ついに現れた畠山家のもう一方の雄(ゆう)、政長(まさなが)!!
   (政長は、弥三郎政久の弟。 赦免の直後に他界した兄の後を継いでいた。
    政長は、義就の実の従兄弟ですが、
    義就の父の持国が生前、政長を猶子(ゆうし。養子とほぼ同義)に定めていたらしく、
    義就の義理のでもあります。)
  初めに言っておきます、畠山政長は超いいやつです。
  おいおい、それでよく義就とやり合えたな! ってくらい、やつは生き仏です。
  ただ、「政長は嫌な奴だ」という評価を耳にした事がある方もいるかも知れません。
  でも実はそれ、とある軍記物捏造なんです。
  その軍記物は、書き手に有利なように数々の捏造を重ねているとんでもねぇ代物です。
  全く以てぷんすかものです!
  なんか悔しくて、本当の人物像が知りたくて、いろんな史料を漁ってみました。
  結果は…、正直廉直で、慈悲深くって優しくて、お人好しゆえに損してばかりで、
  でも、戦においては勇敢で、危機においては冷静で、政道においては正しくて、
  そんな政長の名誉、きっと挽回してみせます!
   (※廉直(れんちょく)…心が清く真っ直ぐなこと。私欲がなく行いが正しいこと。))


 (※それから、この頃の畠山家の分国は、
    河内国(大阪府の南東部) 紀伊国(和歌山県+三重県の一部) 越中国(富山県)
  の三ヶ国で、
  義就河内国(かわちのくに)に没落して行ったのですが、
  畠山家の騒動は、基本的に隣の大和国(奈良県)も巻き込んで繰り広げられます。
  既に述べたように、大和国の守護職は大名ではなく興福寺が担っていて、
  その配下に、在地の武士(大和国人)が衆徒・国民として組織されていたのですが、
  彼らは畠山家とも関係が深かったのです。
   (やっぱり武士って、棟梁を推戴したいのですかねw)
  で、畠山家の惣領が二分すれば、当然彼らも二分する。
  だから、余計話が大きくなる。(なんてこった…)
  畠山家に属する武士は大きく分けて、
  畠山家の被官遊佐・誉田・斉藤・神保など)と、大和国人がいる、
  ってことですが、主な大和国人としては、
     義就方 … 越智・古市    政長方 … 筒井・箸尾・十市
  くらい覚えておけば何とかなります。 他にもたくさんいるけどね。
  それから、彼らは決して脇役なんかじゃありません。
  在地の武士として土地を思う心や、畠山家との関係では、時に熱いものがあるのです。
  …ちなみに、畠山家の被官については、"同姓の者" が義就方・政長方の双方にいます。
  ああもう、ややこしい!)



 さて、アウトロー人生の一歩を踏み出した義就
 (ちなみにこの時、義就24歳、政長19歳。 若いっすねー。)
12歳で元服し、父持国の後を継いでから幕府でお勤め5年半、昨日まで王子だった俺オワタ。 グッバイ京都!
しかもその直後、
  長禄4年(1460)閏9月、義就討伐の命令が下され、政長および幕府の大名連合軍が押し寄せる。
…ひどすww
しかしやはり義就、そう簡単には負けない。大和国人の力も借りて徹底抗戦。
河内の嶽山(だけやま)に籠城を決め込んで、両軍睨み合うこと ……2年半。 長ぇよww
嶽山陥落後は徹底的に逃げ回って、最終的に大和国吉野の山奥潜伏することになりました。
…と、ここで小休止。 
  寛正4年(1463)12月、政長軍帰洛命令が出される。
  寛正5年(1464) 正月、政長、3年数ヶ月振りに上洛
嶽山を落とし、京都に凱旋を果たした畠山家の新たなる王子、しかも今度は性格も良いw
 (ってか前回のは、王子は王子でも修羅界の王子だったからね。 しかも 嶽山 & 吉野 の山篭り生活のせいで、
  修羅界の帝王にランクアップしちゃうからね。…なんてこった。)
そしてこの年の9月、政長は細川勝元に代わって管領に就任(この時23歳)、
ちなみに、畠山政長細川勝元はこの後もずっと良い関係が続きます。(←ここ、割とポイント)


 ああ、なんか久々に穏やかな室町幕府。 このまま、続いて……くれるわけないよねぇ。
だって、義就政長の入れ替わりは、まさにこの幕府の転換点でもある1460年
つまり、始まりでしかなかったのです。
この、河内大和を舞台にした壮大な祭り…じゃなかった、熱き戦いは、
このあと、時代を超えてダラダラ続きます。 収拾つかないなんてこったな終わりなき旅路と化します。
でも、そこには物語があり、そしてそれは英雄を生むのです。
 それでは改めまして、
1460年室町幕府の後半戦と共に―――『畠山家の新たなる伝説』の幕開けです。
名門畠山家の名に恥じぬよう、

     『 義就 vs 政長 』    クリーンファイト!! …OK?

畿内の空に、高らかにゴングが鳴り響いたのでした。 カーーーン…
…いや、カーンじゃなくて、ガーン(呆然)だよホントもう。 もしくは…ちーんww
でも好きです、二人ともw



さて、この辺の文献としては、
  【瀬戸祐規『長禄・寛正期の畠山氏の内訌』 ―古記録と物語、それぞれのあり方―
     (大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究論集 第4巻』(和泉書院)2011)】
当時の河内や大和の出来事を知るには、興福寺の2人の高僧の日記
経覚『経覚私要鈔』と、尋尊『大乗院寺社雑事記』が欠かせません。
軍記物では得られない臨場感、畿内の空の下を駆け巡る武士たちの姿が550年の時を超えて蘇ります。
日記は本当にいいですよ! 真の歴史に目覚めたら、彼らが今の百倍好きになります。
…といっても、軍記物も、脚色や捏造を目的としたものだけではなく、記録を主眼としているものも沢山あります。
当時を叙述した『長禄寛正記』『長禄記』、これらを上記の日記と対比しながら、
この時代の人々が、何を考え、何を感じていたか、色々と妄想してみよう!

それから、大和国人については、
  【森田恭二『応仁大乱と奈良』
     (大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究論集 第2巻』(和泉書院)2003)】
『応仁の乱』だけでなく、その後の明応期においても、彼らの動向は要注目です。


「来たコレ新主君!斯波義廉」

 あ、そういえば『長禄合戦』の後、斯波家の家督はどうなったのかというと、
寛正2年(1461)10月、渋川家の子息が斯波宗家の跡継ぎとして迎えられ、斯波義廉(よしかど)と名乗り、
越前・遠江・尾張三ヶ国守護に任命されました。(この時、義廉 15〜16歳)
 この背景としては、渋川家斯波家と近い血縁であったこと、
それから、義廉父の渋川義鏡が、足利政知の側近として関東で在地任務に当たっていたので、
彼らと斯波軍との連携を強める為(義敏じゃどうしょーもなかったw)ということ、
そしてさらに、斯波義廉の母が、山名宗全伯父の娘(つまり宗全のいとこ)であったことが挙げられます。
 (…ああ、またここにも宗全の影がチラつくw)

 ちなみにこの時、朝倉孝景は、将軍義政から越中・越前の所領7か所を給わり、
さらに(実現はしなかったけど)越前守護代の職を打診されます。(『大乗院寺社雑事記』寛正2年10月17日)
おおっ孝景さん、ノリに乗ってますね! 本拠地の越前一乗谷も、いよいよ賑わってまいりますな!


 (※ここで注意!
  『長禄合戦』は、甲斐朝倉による、単なる主君斯波義敏への下克上とは違います。
  なんたって、公方の義政から、周辺諸国の大名に対し「甲斐方に合力するよう」指示が出されていますから。
  だから、新たな主君を当然歓迎します。
  家臣の支持を得られない身勝手な主君では、将軍からダメ出しを食らうこともある、という良い例です。
  そんな主君では、国が治まりませんからね。 世襲といえども、絶対ではないのです。
  それを見越して、大名家の家督決定に際しその器量家臣の意向を重視した将軍義教は、
  やはり正しかったと思いますw)


 (※もひとつ注意!
  「大名の被官」と一言にいっても、実は、その立場はそれぞれ微妙に異なります。
  主君の大名家と、代々としての私的な関係が深い "譜代の家臣" である場合もあれば、
  もとは足利将軍家に直に奉公している "直臣" の身分で、
  主君である守護大名に、あくまで公務上の関係で仕えている場合もあります。
  公方との関係で言えば、
  前者は「公方ー大名ー譜代の家臣」、後者は「公方ー直臣」となります。
  実は、甲斐朝倉も本来は直臣なので、公方守護大名が対立したときは公方側につくのは当然で、
  それは、守護大名に対する下克上ではなく、公方に対する忠義という認識なのです。
  といっても…
  彼らはやっぱりですから、守護大名に対しても、主君と仰ぎ礼儀忠誠を持って仕えます。
  室町幕府では『礼の秩序』が大変重んじられていましたから、
  守護職に任ぜられる家格の高い大名に対しては、敬意を持って仕えることこそが、
  『礼節』を弁えた室町の武士たちにとっての誇りであり、
  また同時に、守護大名の方にも、主君として仰がれるに相応しい振る舞いが求められたのです。
  つまり、室町の武士紳士!…でなくてはならないので、斯波義敏みたいに、
  てんめぇーーww義敏おまえふざくんなwww …みたいなのは例外なんです、一応。

  ちなみに、朝倉家は、初代足利尊氏・直義時代の「幕府創生期」に足利軍の一員となり、
  当初から足利高経(たかつね)に属し、斯波家被官として歴史を綴っていきます。
   (※足利高経は、斯波宗家の先祖で、現在一般には "斯波高経" と称されますが、
    実際は「斯波」を名乗った事はありません。)
  朝倉家はもとは、但馬国(兵庫県北部)の豪族(但馬国造の末裔)ですが、逆境にあった時代も長く、
  足利尊氏の鎌倉幕府倒幕の挙兵に馳せ参じたことで、運命を切り開きました。
   (それ故、足利高経を直接の主君と仰ぎつつ、将軍直臣の自覚も持ち合わせていたのでしょう。)
  以来、本拠地を越前国(福井県北部)に移し、室町時代を通して、足利将軍家に仕え続け、
  最期を迎えるその日まで、初代将軍の恩義を忘れる日はありませんでした。
  つまり、越前における朝倉家の盛衰は、そのすべてが「室町幕府と共に歩んだ歴史」なのです。
  だから、最初から最後まで、朝倉家公方様大好きですw 誇りです。
  …まあ、大内さんとこの公方好きとかも凄いですがw)


 (※室町時代の "武家の礼節" について詳しくは、
   【仁木謙一『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)1985】
   【仁木謙一『武家儀礼格式の研究』(吉川弘文館)2003】の「第T部 室町幕府の儀礼格式」
  それから群書類従(ぐんしょるいじゅう)にも、
  伊勢家などの幕臣が残した手記の類が、わんさか収録されています。
    (※群書類従…この国に伝わる史書古記録をひたすら集めてまとめた最高に有難い書物
     続群書類従とか、続々群書類従とかもある。)
  室町幕府『礼節』は、「武家の家格」「書札礼(書状の書き方)」「弓術・馬術」だけでなく、
  「年中行事」 についても規定しているので、これが分かれば "武士の日常" が見えてきます。
  彼らは毎日何をしていたかって? …べ、別に、遊んでばっかいた訳じゃないんだからねっ!(汗)
  まあ、この先ちょくちょく言及していきます。)


 さて、ついでに言うと、渋川家というのは足利一門「御一家」であり、斯波に次ぐ高家格。
 (※当時の武家の家格順は… 足利斯波御一家(吉良・渋川・石橋)畠山 >その他… )
だから、渋川家出身斯波宗家の家督となると…、畠山を凌ぐ超絶王子ですw
渋川家は、代々九州探題職を務めていて、関東にも一族がいたりして、本来結構な家なのですが、
なんか影薄いですよね。(私は好きなんですがw)
まあ、生まれながらの貴種だと、わざわざ名を汚してまで貪欲に地位を求める必要も、自己顕示欲もなさそうですし、
その辺やはり、「礼儀を存する輩」なのでしょう。(←ここ、割とポイント)
 でも、九州探題職なんて周防の大内さんに助けてもらいっぱなしだったし、
もうちょっとやる気出せよ、とは思うw

ともあれ、今度こそ忠節を尽くすに値する主君だといいね!(…意味深。)
 (いやw、意味深とか言うなーーっ!
  ホントのホントは裏切ったりなんかしてないんだからねっ!
  一方、斯波義敏については…
  「子々孫々に至るまで家督として認めねぇ!(怒怒怒)」とみんなで誓い合ってます。
   (※みんな = 甲斐・朝倉などの斯波被官 & 周辺諸国の大名 )
  信義ある武士二言なし!! ←ここ、割とポイント )


 (※ちなみに、大内さん周防国・長門国(今の山口県)を中心に、中国地方の一部から九州に至るまで、
  さらに瀬戸内海の海賊衆をも傘下に収める、すんげぇスケールのでかい大名です。
  この時代は、大名は在京して幕政に参加するのが原則ですが、
  領国が遠方にある大内さんは、基本在国して西国の統治に当たっていました。
  だから、『嘉吉の変』義教に忠誠を尽くして果てた大内持世は、
  たまたま一時的に在京していた時にあの惨劇に遭い、しかしそれが為に、
  「日本史上最もかっこいい遺言」を残すことになったのです。
  これだけ広範囲に国を治め、なんか頼りない九州探題渋川家を安易な下克上をすることなく支え続け、
  民衆にも大いに愛された大内さんは、単なる一領国の守護ではない、まさに西国の雄(ゆう)!!
  "名将" とは歴代大内家当主のためにある言葉、それをこの先存分に実感してもらえると思います。)



「本気の政所頭人、伊勢貞親!」

 さて、こうして見ると、義政も結構やる気あったんじゃん、って思えますよね。
まあ、なんだかんだ言っても足利家の将軍天下の政道重い責任を感じていたのは事実です。
でも、優柔不断で割と慈悲深くもある義政にしては、ちょっと強引な政策が目立つような…?
 そう、だってこの頃幕政を主導していたのは、伊勢貞親ですから!

といっても、安易に伊勢貞親を「将軍を傀儡にしていた」「幕政を私物化してなんか喜んでた」といった類の、
小我全開の欲心野郎と評価するのは早計です。
義政の『御父』として、幕臣として、忠義を持って粉骨砕身し、
義政からも、全幅の信頼を寄せられていたのです。
 (※歴史の考察をする上で、人々の行動原理を、自己の利益誘導のみに求めてしまうと、
  上手く真実を描き出せません。
  そりゃそうですよね、彼らは感情のある人間で、信義誠意は値段の付く価値観ではないのですから。
  もちろん、金と権力しか見えてないような者も…特に室町後期は増えていきますが、
  この時代は、割とみんなそれぞれ道徳を身に付け、信念を持って行動しています。
  画一的に彼らの目的を、将軍傀儡、権力独占、体制破壊、と決めてかかってしまうと、
  永遠に虚像の歴史に彷徨(さまよ)うことになってしまいます。
  室町中期の武士が抱いていたプライドは、この時代をあざやかに彩る花でもありました。
  みなさんも是非、『大日本史料』の中にそんな花を探しに行ってみて下さい。)


 室町幕府の奉行衆は、今で言う官僚集団ですが、
伊勢家の当主で政所頭人でもある伊勢貞親は、いわばその官僚集団のトップといったところで、
政策立案に深く関わっていました。 …てゆうか、たぶんほぼ主導してたw
13年振りの内裏の再建、義政の右大将拝賀室町殿の造営を可能にしたのも、彼の幕府財政再建手腕の賜物です。

 (…ん、内裏再建?? と思われたかもしれませんが実は…
  『嘉吉の変』の2年後に天皇の御所放火されていたのです。
  えええーーーっ!?と思うでしょ。 全くもってけしからんぷんすか事件の詳細は、この後で。)


 (※ちなみに、室町幕府では管領の権力ばかりが注目されますが、
  幕政はそんなに単純なものではありません。
  そもそも将軍自体が「御前沙汰」といって、天下の諸事について直接成敗をしていたのであり、
  何より、実務を担う奉行衆がいなければ、まず幕政は成り立ちません。
  この奉行衆も基本的に世襲で、家に代々、政治に関する様々な知識を蓄積し受け継いでいた、
  まさに日本の頭脳集団でした。
   (この頃の主な家は… 飯尾、大館、斎藤、諏方、清、布施、松田、など。
    初期幕府では、鎌倉以来の二階堂や長井らが活躍しています。)
  室町幕府の後半戦では、特に管領細川家の権力が過大に捉えられていますが、
  その時期も上意が重んじられていたのはもちろんだし、むしろ幕政の主力は政所頭人である伊勢家です。
  戦国期に至り、幕府権力簒奪に来た独占欲の強い者たちも、
  将軍京都から追い出したところで、
  膨大な知識を蓄えた彼ら無しには到底、幕政の運営不可能でした。
  細川家も、幕府における管領としてより、分国における守護としての活動に重きを置いていた訳で、
  "細川政権" という表現には誤解があります。
   (…以上、詳しくは【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】)
  まあ、敢えて言えば "伊勢政権" となるのかも知れませんが、
   (ってか、○○政権という言い方自体ナンセンスな気がw)
  実はそれも違います。
  なぜなら、伊勢家は非常に高い美学を持った官僚で、
  己が欲心の為に幕政を独占するような、品のない武家ではないのです。 特に、伊勢貞親次の代は…。
  『御父』である伊勢家"公方への忠誠心" "官僚としての理念" に着目すれば、
  室町後半戦の幕政真の姿が見えてくると思います。
  …まあでも、この続きはまだ先にしましょう。  という訳で… )



 伊勢貞親の目指していたもの、それは――― 将軍親政の確立による、幕府体制の建て直し。
『嘉吉の変』後、かなり好き勝手やり始めた大名たちを、
もう一度幕府体制の中にきっちり組み込み直し、天下に『秩序』を取り戻そうとしていた訳です。
 ただ、"俺らで幕府" が本質である室町幕府にしては、ちょっと、将軍親政傾向が強すぎてしまった。
「幕命は絶対!」という軍事政策は、武士たちの心を遠ざける結果に。
伊勢貞親自身は、非常に教養が高く、『礼節』『道徳』も身につけた人(…のはず)ではあるのですが、
公方を立てるあまり、武士たちをシステマチックに扱い過ぎてしまったのでしょう。
彼らは、「そこは譲れねぇんだよぉっっ!!」というなんか熱いものを持ち、
待っているのは、血が通わぬ幕命ではなく、将軍に御目をかけられる栄誉ですからね。
 ただ、この頃は、武士たちが在地の支配を強めつつあった時代で、
各地で彼らによる寺社本所領の押領(※)が盛んだったことが、
伊勢貞親に強硬な姿勢をとらせることになった、最大の要因だと思われます。
 (※…幕府の基本方針は『寺社本所領の還付』です。
  「おい、そこ! 元の持ち主に返せコラーー!」です。)


 (※寺社本所領の押領について。
  これは南北朝期から続く問題で、
  動乱期の兵粮に充てる目的で、寺社本所領が一時的に武士に預け置かれたことに始まるのですが、
  動乱の世が去り、幕府返還政策を進めるも、なかなかみんな元の持ち主(貴族や寺社)に返さない…
  それどころか新たにどんどん押領していく。ヒャッハー!
  困った幕府はやがて、『半済令』(はんぜいれい)という折衷案を打ち出します。
  これは、その寺社本所領を現在実質的に知行(支配)している武士に対し、
   「年貢の半分は今まで通りお前らのでいいから、残り半分はちゃんと元の持ち主に納めろよ!
    あ、それから、もう他の所領には手ぇ出すなよ! 絶対だぞ!!」
  というものです。
  まあ、元の持ち主からしたら、悲しい反面、今までゼロだった年貢が半分は保証されるのですから、
  悪くない妥協案だと思います。
  ただやはり、それでも従わない奴はいる訳で、
  貴族寺社武家 "共存共栄路線" を行く室町幕府としては、以来延々と、
  「おいこら返せーー! おめーら寺社本所領返せー! ちょ、そこ!新たに押領すんなっつったろがボケ!!」
  と、分からず屋なヒャッハー武士たちに手を焼き続けたのでした。
   詳しくは→【桑山浩然『南北朝期における半済』2003(同『室町幕府の政治と経済』(吉川弘文館)2006)】
   
  ……まあ、確かに他人の所領を奪う無法な行為は、中世といえども許されざるものですが、
  ただ、時代の流れを考慮に入れて、武士の側から言い訳をしてみると、
  そろそろ京都だけでなく、地方にも人々が行き交い、街が栄えてきてもいい頃です。
  その土地で生まれた(年貢)を、半分は京都の弥栄に、半分はその土地の繁栄に、
  そうして日本全体が成長していくのは、大局的に見れば良い未来に向かっていると思うのです。
  実際、礼儀を持った大名は、きちんと一定の年貢を京都に納め続け、同時に土地と民の発展に力を注ぎ、
  所領の代官職を通じて公家寺社との関係が深まれば、文化学問が地方に伝播し、仏法も栄え、
  京都地方貴族武士、そういう有機的な繋がりは時間をかけてその土地を潤し、
  見事に、いわゆる小京都と呼ばれる町並みを、その城下に誕生させたのです。
  (当時、公家はやはり地方への下向をよく思ってなかったようですが、どうにも金銭に困って下向すると、
   その分国の大名は、ものすごく歓迎しましたw 至れり尽くせりです。 お土産も付きます。)
  ただし一方で、礼儀を持たぬ大名は、時間をかけて富を育てるよりも、いま目の前にある富の収奪に固執して、
  歯止めの利かぬをかざし、押領の継続、隣国との領土争いを繰り広げる道をたどります。
  
  『応仁の乱』の前後での、最も顕著な社会の変化は、大名たちが在京から在国へその軸足を移すことですが、
  そこには、南北朝期以来の寺社本所領の押領を端緒とする、大名地方結びつきが背景としてあったのです。
  なので、義政伊勢貞親がどんなに『寺社本所領の還付』を進めても、
  この大きな流れを止めることは出来なかっただろうし、いずれその転機は訪れる運命にあったのでしょう。
  だとしたら、その切っ掛けを与えた『応仁の乱』は、
    「ヒャッハーに始まったけしからん押領を、小京都の実現という夢物語に転化できた大名は誰か?」
  という視点から、その意義再検討してみてもいいのではないかと思います。
  単なる家督争いだとか、細川勝元と山名宗全との私怨対決だとか、
  それらは所詮、当初の局所的な問題に過ぎず、
  乱の終わりはまた、
  『戦国』へと続く、ただ坂を転がるような一本道への入り口だった訳でもないのです。
  それは、小京都という『彼の岸』を目指した名君と、領土侵略という『戦国』に堕ちた将、
  その "二本の別れ道への分岐点" だったのであり、
   「なぜ『応仁の乱』は、そのような "分岐点" たりえたのか?」
  という問題意識を持ってこの大乱を再考することが、肝要だと思います。

  …とはいえ、「ここまで大乱になることもなかっただろうよ」とは誰しも思いますよねぇ。
  ええ、ほんと。 その原因をたどれば、そもそも室町幕府発足時からして、
  将軍を取り巻く愉快な大名たちが、どうしようもなく潜在的にヒャッハーだったことに加え、
  後半戦開始時の公方が…、ここぞという大事な時期の公方が…、"やつ" だったことに他ならない。)




「期待の新星!足利義視」

 公方を頂点とした体制を目指す伊勢貞親にとっての最大の誤算、それは…
当の公方が、"すこぶる頼りない" という現実w
どうも義政は、大名や近臣の意見をホイホイ受け入れる傾向があったくさい。
 そんな上意のもとで将軍親裁なんて推進しようものなら、当然、伊勢貞親他の近臣の力が強くなり過ぎるし、
力を持ち過ぎた近臣は、大名たちとの間に軋轢を生じさせます。
これがまだ、大名たちによる将軍親裁だったら、少しは上手く行ってたかも知れないけれど…
"俺らで幕府" ってのは、単に "俺らで運営する" 幕府ではなくて、"俺らで公方を支える" 幕府のことですからね。
しかし、やたら威勢の良い山名ヒャッハー宗全が幅を利かせる状態では、
『秩序』ある落ち着いた幕府運営を期待したところで、なんか無駄にエキサイトしてしまうのがオチです。
そしてまた何より、側近政治腐敗する、という事実。
 優柔公方と、それを支える豪腕貞親、賄賂に走る近臣に、言うこと聞かなくなり始めた大名たち
遠く、遠く、『彼の岸』を一点に見つめ続けた父義教の政道が突然に幕を閉じ、
指標とすべき星辰を見失った者達は、それぞれに目の前の幻に惑い始めてしまった。
明日にも途切れそうな繋がりで、砂上に震える幕府は一体、どこにたどり着いてしまうのか?
 (…いや、だからそれ応仁のアイ乱…)
ああっ! せめて公方様がしっかりしてくれたら! 厳密公方カムバック!!


 (※この頃、伊勢貞親に近い側近といえば、
  僧侶で蔭凉職季瓊真蘂(きけいしんずい)と、御台・日野富子の兄の日野勝光(かつみつ)。
  日野勝光・日野富子兄妹のお金好き & 蓄財のすごさは、既に当時から天下に隠れなき事でしたが、
  どうも、賄賂口入と言った「特権的地位を利用して金銭を要求する行為」は当然の権利で、
  悪い事だなんて思ってなかったんじゃないか?? …って印象。
  行動の基準 "道理" ではなく "金額" ってんじゃ、そりゃ世の中メチャクチャになります。
  一方、「蔭凉職」(いんりょうしき)とは、禅林(ぜんりん。禅宗寺院のこと)の行政を担う職で、
  将軍禅林界の間でいろんな仕事をしていました。
  蔭凉職の日々の記録である『蔭凉軒日録』は、この頃の幕府を知るための貴重な一次史料です。
  室町幕府はその創立時から、五山十刹(ござんじっさつ)の制度を定めて禅林を保護・統轄していたので、
  幕府における蔭凉職の役割も、自(おの)ずと大きくなります。
  義政時代に大成したいわゆる『東山文化』が、公方禅林の僧たちの交流から生まれたものであることからも、
  幕府禅林界との深い関係が窺えます。
  …うん、まあこの世界もやっぱりちょっと堕落してたw
  禅僧なのに名利に走ったり、
  (五山文学は素晴らしいし彼らの学識の高さは尊敬に値するが)ちょっと文学に傾倒し過ぎてたり。
  ああもうっ、夢窓国師カムバック!!)


 さて、そんな感じで、イマイチ思うように治まらない世の中に、義政はだんだん自信を無くしていきます。
長禄3年(1459)12月、義政涙目の一首
  さまざまの 事にふれつつ 嘆くぞよ 道さだかにも おさめえぬ身を
                             (『臥雲日件録抜尤』長禄3年12月17日)
「ああ、俺やっぱ将軍向いてないかも…」と、遠い目をする将軍義政25歳
新築『室町殿』に引っ越したばっかで、このテンションw
ま、9歳から公方やってりゃ分からなくも無いが、 
でも、上意上意らしくあって欲しいって願ってる者もたくさんいるんだ、
ここは一つ、気合入れ直してみたらどうだ?
…まあでも、将軍って厳しさも求められますからね、義政の性格では限界があったのでしょう。
そこで、

  寛正5年(1464)12月、義政、弟の浄土寺門主義尋還俗させる。

この時点で男子のいなかった義政(30歳)は、
出家僧だった弟の義尋(ぎじん)に将軍職を譲ろうと考えました。
この時義尋26歳、兄の命を受けて還俗し、足利義視(よしみ)と名乗ります。


 (ぬおーーーっっ!! お待たせしました! 足利義視の登場です!
  いやー、還俗公方好きとしては待ちくたびれましたね。 え、みんなも待ってたでしょ?
  もちろん、還俗公方だからやっぱり…真面目ですw
  尋尊曰く、「毎事、善政御儀云々」(『大乗院寺社雑事記』)。
  ちなみに義視がいた浄土寺天台宗で、父義教青蓮院と同じ。
  おおっ!? 厳密公方来たこれ!?
  ただ…、ただね、
  清廉潔白で、「仰いで天に愧(は)じず、俯して地にはじず!」を地で行くような人間ってのは、
  いざ、謂われなき汚名を受けたり、はたまた認めがたい不義に出くわしたりすると…
  ぶち切れて突進する傾向があるのが玉にキズ。てへ。 (←ここ、ポイント)
  南北朝期の『観応の擾乱』の足利直義なんて、まさに信念を曲げなかった典型ですよね。
  ヒャッハー大名を相手に、死に至るまで貫いたその崇高な精神!!
  ……え? でもそれで自滅しちゃダメだろって?
  うっせー知るか! 漢(おとこ)たるもの、そこに正義があるのなら、貫かずにはおれんのだ!!
  うん、そんな訳で、義視も色々やらかしちゃうんだ。
   (ちなみに、あの温厚な畠山政長でさえ、一回やらかしちゃうんだ。)
  ま、心にやましいことがなければ、潔白証明したくなっちゃうよねっ!
  たとえど派手にコケようと、気高く生きなきゃ意味がない!
  それが、泥にまみれて戦いながら、心はどこまでも清い武士の性(さが)。 世渡り下手でごめん!)



 さて、そんな感じでなんか熱いものを持つ弟義視は、割とすぐ大名たちと良い関係を築いていきます。
 (この時点ではもちろん、正式な将軍義政。 義視将軍見習いといったところです。)
一方、ちょっと肩の荷が下りた兄義政は、念願だった隠居用の山荘造営の構想を始めます。
これが後の『東山殿』、現在の『慈照寺』(銀閣寺)です。

 少し前を思い返すと、側近女房集団の泥沼抗争、斯波家畠山家のドタバタ家督交替、
あと、寛正元年(1460)前後には「寛正の大飢饉」があったりして、わりと世紀末寸前だったのですが、
この、寛正5年から6年(1464−1465)あたりは、そこそこ平和な感じに包まれていたようです。
管領は心素直な畠山政長で、有力大名細川勝元との関係は極めて良好、
そして京都では、糺河原での勧進猿楽、花頂山での盛大なお花見、それから奈良の春日社参詣など、
晴れ晴れしい大儀が続きました。

 (※糺河原(ただすがわら)は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になる地点。 今も素敵な河原です。
  『猿楽』は現在の能楽の旧称。当時は御所や大名の邸宅で猿楽田楽などの芸能が頻繁に催されていました。
  実は、当時の武士は結構…いやかなり遊び好きですw
  だからこそ室町の文化洗練されていったんですけどね。
  品があって遊びがあって繊細で大胆、室町中期は最も Japan がクールだった時代だと思います。
  「糺河原の勧進猿楽」とはつまり、鴨川に大名たちが桟敷をずらっと構えての華々しいチャリティー公演
  京中が盛り上がるイベントです。  でも、あんまり遊んでばっかいると… ちーん。)


 そうそう、次期将軍候補弟義視が還俗した1年後の寛正6年(1465)11月、
兄義政に待望の男子が誕生しました。これがのちの9代目足利義尚(よしひさ)(母は日野富子)です。


 (※さて、ここで重大な要注意です。
  足利義尚というと、
   「生母の日野富子が、次期将軍義視を退け我が子を将軍に据える為に、
    山名宗全と陰謀をめぐらし、大乱を勃発させた」
  つまり「応仁の乱の大元凶!」という説がまかり通っていますが、すまない、実はそれは…

    『応仁記』という軍記物のちょっとお茶目な "勘違い" だったんだ!! てへ。

  ……。 いや、てへじゃねーよ! どんだけ後世の歴史学が不利益被ったと思ってんだよっwww
  ほんと迷惑な話ですよねー。
  だって、当時の一次史料のどこを見渡しても、そんな事実読み取れないんですよ。
  この時期はたくさん日記が残ってますが、それらから導かれる筋書きはまるで違う。
  だから、「日野富子が実子義尚山名宗全に託した!」と信じ込んでいると、
  辻褄が合わなくて全くイミフ、未来永劫理解できない『応仁のミステリー』と化します。
   (※ただし『応仁記』は、この部分(=乱の原因)を除けば割とまともな軍記物です。
    しかもこの部分も、悪意のある "捏造" ではなく、筆者が乱の過程から推測した "勘違い" だと思います。
    ま、詳細はいずれ。)
  まあ、学術界ではとっくに周知の事実のようですが、まだ世間一般には浸透してないですよね。
  そもそも、なんでそんなうさん臭い話が史実として信じられて来ちゃったかっていうと、
  一昔前は、軍記物の記述が "事実" として扱われていて、歴史は "物語的側面" を多分に含んでいたんです。
   (※例えば、現在一般的な戦国武将のイメージエピソードって、
    実は結構な部分が "物語的"(=軍記物や講談に基づいたもの)なのです。)
  しかしいつまでもそれでは、(娯楽としてならいいけど)"学問" と呼ぶには…
  という訳で現在は、
  一次史料を丹念に読み解き、個々の事実を拾い集めて組み合わせ、
  ピースの揃わない所は論理的推理で埋めつつ真実を完成させる壮大なパズル―――
  すなわち、「実証主義的歴史学」が発展したのです。
  もちろん、それは軍記物(二次史料)を完全否定すると言う意味ではなく、
  条件付きで(=その信憑性を個々に慎重に検討して)用いるべきという事です。
  それに、リアルタイムに近い時期に綴られた軍記物の場合は、
  「その当時の人々の目に映った世界」を語っている、という意味で、
  二次史料にしかない魅力・研究価値もあります。
  しかしやはり、一次史料が十分に存在し真実が解明出来る時代なら、
  私たちは、その真実から学ばねばならない事があるのです。
  …そういう訳だ、ここは一つ、一回解脱して頭をまっさらにしてくれ。
  そしてゼロから丹念に一次史料の大名たちの言動を追うんだ。 真実のゴールは必ず君を出迎えてくれる。
  キーワードは、「義尚関係ねぇーwwwww」
  『応仁の迷宮』に挑むには、先入観という荷物を極力減らすこと。
  いいか、そうしないとこの先もたないぞ。 なぜなら…――― 真実はもっとハチャメチャだ!)


 (※この話についての続きは、「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました「応仁記の謎を解く」
  で解説します。
  ちなみに正確に言うと、足利義尚は、"大乱勃発" には直接的な関係はありませんが、
  "大乱の長期化(悪化)" には大いに関係しています。(もちろん、幼い本人の意思ではありませんが。))



 さて、だいたい主要な役者は揃いましたかね。 では先に進みま…あっそうだ、赤松忘れてたww


「嘉吉の真相」

 『嘉吉の変』という天下大迷惑な事件を起こして天誅を食らい、
一族郎党没落黒歴史を余儀なくされていた赤松家ですが、
17年のブランクを乗り越えて、長禄2年(1458)遂に幕府に復帰します。
これは、上述の "天皇の御所放火事件" と関わりがあります。

…とここで、ちょっと『嘉吉の変』の補足をしておきましょう。
あの事件は、「赤松の単独行動で、義教による守護職改替の話は、あくまで根拠のない噂だろう」と、
「2-5 終章・室町幕府の前半戦「途切れた明日」」で述べましたが、
なぜそう言えるかというと、
もし本当に、何の過失もないのに理不尽に守護職を改替されようとしていたのなら、
赤松満祐は、諸大名と協力して、将軍義教の決定に抵抗する姿勢を示すことも可能だったからです。

 というのも、実は4代目足利義持の時代に似たような事件がありまして、
応永34年(1427)、赤松満祐の家督継承の際、播磨・備前・美作のうち、播磨国の守護職を、
将軍義持が、自身の近臣である同族の赤松持貞に与えようとし、
これに反発した赤松満祐が播磨国に下向して抵抗
怒った義持は更に備前・美作も召し上げ、大名たちに赤松討伐を命じます。
しかし、この理不尽な処置に大名たちは赤松満祐に同情、赤松持貞の不義が発覚したのもあって、
赤松満祐は赦免され、事無きを得ました。
 つまり、将軍の命令であろうと、あまりに筋が通らないものならば、
大名たちは結託して異を唱えるのです。 (←ここ、実はポイント)
だから『嘉吉の変』の時も、もし噂が事実なら、赤松満祐諸大名を味方につけることも可能だったのです。
 (諸大名が義教に反対意見を通すことが可能だったのは上述した通り。)
しかし実際は、赤松満祐過去の経験を生かして諸大名を味方につけることもなかったし、
諸大名赤松に同情することもなく、赤松一族 "団結した大名連合軍" の前に完膚なきまでに敗北します。
 「赤松の守護職改替」や「諸大名が赤松に同心している」という噂は、
やはり、『建内記』にあるように「浮説」でしかなかったのでしょう。
 ただ、赤松が「守護職改替の浮説」を鵜呑みにしていたとしても、
家の存続のことを考えたら、単独でも領国に下向するなりして抵抗するべきであって、
守護職改替を阻止する為に、将軍暗殺という "一家滅亡の道" を選ぶというのは、
どう考えても本末転倒の破綻した思考です。


 それでは、真相は何だったのかというと…
実はこの凶行を教唆した真犯人は、赤松満祐の弟の赤松則繁だったのです。
 この赤松則繁は極めて粗暴な人物で、
4代目義持の時代に、花見の席で殺人事件を起こし、切腹を命じられたが逐電、
また、『嘉吉の変』では、一族が次々と死にゆく中、一人九州まで逃げて、
海を渡れば高麗に侵略をしかけ一国を蹂躙、
日本に戻れば大内さんに喧嘩を売り(もちろん、大内さんが勝ったw)、
更に逃げ回って7年後の文安5年(1448)、河内国で同族の赤松則尚に討たれて終わります。
まさに、"殺し荒らし逃走" に明け暮れた、武士の誇りの欠片も持たない人物です。

 この赤松則繁が、赤松満祐の嫡子赤松教康を唆(そそのか)して起こしたのが『嘉吉の変』
『嘉吉の変』を赤松側に立って記した軍記物には、『嘉吉記』『赤松記』『嘉吉物語』などがあり、
どれも赤松の非を隠す為に事実が曲げられていますが、
『嘉吉物語』だけは、"一族家臣の悲壮な言い訳" という視点で見ると、少し事件の核心が見えてきます。
どうやら真相は、赤松則繁が、
  「名将軍の首取りてぇーー!! 有名になりてぇーー!」
  「前世からの因果で決まってんだよっ、やるしかねぇんだよ!」
と、ひたすら血に飢えていたらしい。
…絶句。
まあ、暗殺直後の、将軍の首の狂気じみた扱い方を見れば、想像に難くない動機ですが。
 (『建内記』嘉吉元年6月24日)
 (※この時代、敵将の首は丁重に扱うのが武士の道義です。)

 例の「守護職改替の噂」は、赤松則繁にとっては、願ってもない口実になったのでしょう。
しかし、それで犠牲になったのは天下の泰平だけではない、
赤松一族、そしてその下の多くの家臣も、武士としての名地の底まで蹴落とされ、流浪の身となったのです。
 特に、赤松家家督の赤松満祐は、幕臣として長らく将軍義教に仕え、信頼も得ていました。
もしこんな事件が起きなければ、天下を支えた武士の一人として、堂々たる高名を残していた人物なのです。
それなのに、武士としてこの世に生まれながら、
「将軍殺し」の汚名と「朝敵」の名だけを、後世に残すことになるなんて。
 実は、赤松満祐『嘉吉の変』の前年から、
"狂乱" により幕府に出仕していなかったのですが(『建内記』嘉吉元年6月24日)、
これは恐らく、赤松満祐に余計な行動を取らせないための画策(つまり軟禁)だったのではないか、
とも推測されています。
それから、播磨国に下った赤松満祐から届いたという、「管領細川持之挑発する書状」が伝えられていますが、
その内容が、
 「前々から欲しかった将軍の首を手に入れた、でも天罰被って既に体はぼろぼろ、
  だから早く討手を下して俺を殺してくれ」
というもの。
…これどう見ても赤松則繁感想文だろ! 書かされた感が半端ないんですが。

 まあ、嫡子の赤松教康は、若気の至りでこんな外道の教唆に乗ってしまった謗(そし)りは免れませんが、
赤松満祐と、赤松家に仕えていた家臣たちについては、正直、本当に不幸だと思います。
赤松満祐は自害、嫡子の赤松教康は伊勢国に逃げるもそこで誅され、
赤松の領国、播磨・備前・美作は山名家の手に移り、一族、家臣、領国の全てが、崩壊離散の運命をたどるのです。
赤松則繁に言わせればこれも、"前世からの因果" でしかないのでしょうか ―――


では、事件の経過を伝える当時の記録をいくつか…

 (赤松則繁が溺死したという "誤報" に――)
 「赤松左馬助…今度大変彼殊彼張行云々…天罰不免者歟、上下含笑」  (『建内記』嘉吉元年9月2日)
   (赤松則繁は今度の大変の張本人。(溺死したとは)天罰は免れないものだ。上下万民みな安堵している。)

 (幕府軍による赤松誅罰の報に――)
 「早速落居 万民喜悦何事可如之哉」  (『管見記』9月14日)
   (早々に片が付いた。万民にとってこれ以上の喜びがあるだろうか。)
 「早速之静謐、天下大慶只在此事、仏神之冥助不能左右者也」  (『建内記』嘉吉元年9月13日)
   (早速の静謐、天下大慶とはまさにこの事、仏神のご加護は言葉にならない。)

 (嫡子の赤松教康の首が京都に到着して――)
 「賊首教康…今日京着云々…天罰不免、顕然者歟」  (『建内記』嘉吉元年閏9月5日)
   (賊臣赤松教康の首が京着した。 天罰を免れざることは明白なのだ。)

…こうして見ると、なんかやり切れなくなってきますね。
身勝手な賊臣による凶行で、天下の泰平は穢され義教は殺されたのか、と思うと。
『嘉吉の変』の直前は、各地で継続中だった紛争が立て続けに解決し、
京中安堵と大慶の空気に包まれていたんです。
そこへ、この突然の惨劇…。 どうにか避ける手立てはなかったのでしょうか…
 ただ…、実はですね、
もしかして義教は、自分の運命を悟っていたのではないかと、思われる節があるのです。
最期の日を知ってなお、ためらうことなく赤松邸に向かい、そして "定め" を受け入れただけだったのだと。
…なんか、変なこと言ってすみません。でも本当ですw
ってか、やっぱこの人は還俗しきれてなかったんじゃないか??…と思うw  まあ、続きはまた別のところで。


 あ、それから、この赤松退治で、主上による「治罰の綸旨」が下されたのは上述しましたが、
この時後花園天皇は、綸旨の草案に宸筆(しんぴつ。天皇の直筆)で文章を書き加えるほどに積極的だったのです。
 (※草案と宸筆加筆後の比較は…『建内記』嘉吉元年7月30日
  宸筆加筆後綸旨は、実に威風堂々たる文章、これこそ天子!と言う感じで、めっちゃかっこいいですw)

 これは、後花園天皇が、天下を正しく見据え、政道にも熱い思いをお持ちの聖主だった、という事に加え、
実は、義教の日頃の忠節を非常に高く評価し、信頼を寄せていたからなんです。
後花園天皇義教君臣関係は、涙流れまくりですよ、マジで。
語り出したらまた止まらなくなるので、詳しくは別のページに譲りますが、
その厳しさで人々から疎まれることの多かった義教も、ただ一人、主上には認められていた、
武士として、将軍として、これを超える光栄は存在しないと思います。  …義教、良かったなぁ(涙涙涙)



「禁闕の変」

 さて、ではようやく本題の赤松家再興の話に入ります。
『嘉吉の変』2年後の嘉吉3年(1443)9月23日の夜中に、
内裏(天皇の御所)に悪党が押し入る凶悪事件が発生しました。 これを『禁闕(きんけつ)の変』といいます。
凶徒三種の神器を狙い、神璽(しんじ)と宝剣を奪ったのち放火内裏はほぼ全て焼け落ちました。
公家の奮闘や幕府軍により、天皇は何とか脱出、凶徒の大半も討ち取られましたが、
三種の神器のうち、宝剣は戻ってきたものの、神璽だけは奪われたままとなりました。

 この犯行の首謀者は、南朝の皇胤(こういん。天皇の子孫)、公家の日野一族の者、
そして大半は赤松残党の凶行ということでした。(その他、公家や武士にも同調者あり。)
 つまり、将軍暗殺後の基盤の整わない幕府の隙を突いて、後南朝赤松残党公家の一部が手を組み、
持明院統の天皇から皇位を奪うために実行した、大規模かつ卑劣なクーデターという訳です。
 (というか、『禁闕の変』ってあまり知られていないけど、
  天皇の御所襲って神璽略奪して放火って… 想像しただけで青ざめる歴史的大事件です。)

『嘉吉の変』によって断ち切られた秩序の糸は、こうして、
武家社会だけでなく、世界の全てを歪ませ始めていたのです。

 (※南朝北朝については、名目的には3代目足利義満「南北朝の合体」を成し遂げたのですが、
  やはり、完全には問題は解決していませんでした。
  6代目義教は、南朝の皇胤を自身の猶子(ゆうし。養子のこと)として寺院に入れ、金銭的にも面倒を見たりと、
  皇位の安定の為に色々頑張ってはいたようですが、
  この問題は、鎌倉時代に始まる非常に根の深いもので、
  天下が背負い続けねばならない(ごう)として、輪廻を繰り返していたのです。)



 さて、奪われた神璽三種の神器の一つ、すなわち皇位の象徴ですから、何としても取り戻さなければなりません。
行方を探り続けて数年後(この間、南朝方の活動は活発になりつつあった)、
神璽は、奈良の吉野の奥地に潜む、南朝方にあることが判明、
幕府は神璽奪還に乗り出しますが、その遂行に名乗りを上げたのが赤松家の旧臣で、
奪還成功の暁には、主家の赤松家を再興させることが約束されました。
 長禄元年(1457)12月から翌年にかけて、赤松旧臣は、吉野で南朝皇胤一宮二宮を殺害し神璽を奪還、
8月になって無事、15年振りに神璽京都の内裏に安置され、
そして遂に長禄2年(1458)10月、まだ幼い、のちの赤松政則(この時4歳)を家督として、
家臣の手によって、赤松家再興を遂げたのです。


…と、これが赤松家再興の顛末です。
普通の感覚だと、
 「ええーー!? 将軍殺した大名家将軍(しかも殺された将軍の子)が許しちゃうの!?」
と思いますよね。 まあ、それもそうなんですが、
室町幕府ってのは基本的に…、なんでも許しちゃうところがあるのです。
どうやら、人を怨むって感情がほとんどないらしいw (←ここ、この先頻出ポイント)
というか、本来は日本人ってこういう感覚だったようです。
初代将軍の足利尊氏も、我が子のように敵を許しちゃう将軍でしたし。
甘い!ぬるい!禍根を残す! とは言われそうですが、
悪は憎むが、人を怨み続けない」ってのは、なかなか誇らしい性質だと思いますw
 それに、赤松教康・則繁の罪は重いけど、赤松満祐の甥の子にあたる赤松政則には全く罪はないのだし、
主家の再興に尽くした家臣たちの忠誠は、評価されてもいいと思います。
 (ってか、『禁闕の変』と『神璽の奪還』って、赤松旧臣によるマッチポンプじゃ…
  という疑いは、ここでは一応、スルーします。)
それにしても…、将軍暗殺したり、宮様を討ったり、赤松家ってのはどんな因果を背負わされているんだろうか…
と思うと、ちょっと悲しくなる。

 (ちなみに、『禁闕の変』で奪われた宝剣神璽のうち、宝剣は直後に見つかったのですが、
  この見つかり方が珍妙で、
   「これ三種の神器だから! 返すから! 丁寧に扱わないと罰当たっちゃうんだから! 気をつけてねっ」
  というお手紙を添えて、京都の清水寺の境内に放置されていたのです。
  …これどう考えても、奪った奴になんか祟りがあったから、ビビって手放したんだろw
  まさに天誅。 宝剣の霊験、畏(おそ)るべし!!)


 という訳で、無事神璽は京都に戻って、めでたしめでたしな訳ですが、
でもこれも、南朝方に立ってみれば、北朝方による卑劣な凶行でしかない訳で、
この持明院統大覚寺統の問題は、もう誰が悪いとか、どっちが正しいとかいう話ではなく、
"天下の悲話" としか言いようがないと思います。 だって、誰も得してないですもん。
殊更誰かのせいにして責め立てるってのは筋違いであって、
どちらも確かに歴史上に存在したこと、それをありのままに受け入れ、
それぞれの思いを汲むことが、今の私たちに出来る全てだと思います。



「揃った役者」

 さて、再興したからには当然…『応仁の乱』参加します。
さあ、まずはアップだ! ターゲットはもちろんっ、
赤松のかつての領国、播磨・備前・美作をおいしく頂いちゃってる、山 名 宗 全 !
実は、この時点では、赤松家加賀半国の守護職(※)を与えられただけで、
主君の赤松次郎法師(のちの政則)(※)はまだ幼いし、完全な再興とは程遠かったのです。


 (※豆知識その1
  「半国の守護職」とは、文字通り半分だけってことです。
  この時代の分国の支配体制の現状は、実はかなり複雑で、
  大名がある分国の守護職を与えられたといっても、
  その分国の全領域を一元的に支配(これを一円知行といいます)していた訳ではないのです。
  一部は京都の公家寺社荘園だったり、一部は内裏幕府御料所だったり、
  一部はその土地の寺社が領有していたり、在地の有力国人が強い影響力を持っていたりと、
  かなり "つぎはぎ" 状態だったんです。
  また、各所領は、持ち主が直接年貢を徴収しているのか(これを直務(じきむ)といいます)、
  それとも、守護大名の被官や在地の武士が代官として年貢を請負っているのか、
  という違いもあります。
  つまり、その土地の現状に即した(その土地に根ざした)支配が自然に発展していたという側面が強く、
  守護大名が分国を統治するには、その一存で(上からシステマチックに)支配するのではなく、
  公家寺社在地の有力国人百姓などとの、土地を介したネットワークが非常に重要だったのです。
   (※中世の在地支配を知ると、日本人土地の結びつきの重要性がわかると思います。
    中世、武士だけでなく寺院神社百姓も土地を守る為の自衛手段として武器を持っていたのは、
    決して反乱の為ではなく、土地を愛し土地と共に生きてきた日本人の本質だったのです。)
  そんな訳で、一国ではなく半国守護職なんてのも存在した一方で、
  畠山家のように、自国(河内・紀伊)の隣国である大和国や和泉国の一部にも影響を及ぼしていた場合もあり、
  はたまた、守護がいるんだかいないんだか分からないような分国もあったりで、
  柔軟というか、まあ、つまりはゆる町支配なので、当然各地でいざこざが絶えない…。
  これらの訴訟を担当していたのが、中央の幕府。 ああもう、毎日大変w
  うーん、ゆる町なのもいいけど、もうちょっと何とかした方が良いんじゃ…?
  室町時代中期頃から、徐々に守護大名分国の統治に力を入れ出したのも、背景を考えれば自然な流れです。
  そして、この在地支配の傾向が『応仁の乱』を境にして急速に進んでいくことになるのは、上述の通り。
  『応仁の乱』はそれだけ見てると意味不明ですが、前後の社会の変化を合わせて考えると、
  上手く歴史の流れの中に位置付けることが出来るのです。
  …まあ、彼らがやっちまい過ぎたことには、変わりはありませんが。)


 (※豆知識その2
  当時の「名前」は、今よりちょっと複雑です。
  生まれた子供は幼名(童名)で呼ばれ、元服して初めて実名諱(いみな)を名乗ります。
   (例:上記の赤松の場合は、次郎法師が幼名、政則が諱です。)
  しかし、本来「名前」というのは、「その人やその物を支配する力を持つ」と考えられていたので、
  "実名" であるで呼ぶのは憚られることでした。(特に、目上の人に対しては。)
  そこで、"実際の呼び名" として、通称(通り名)官職名(官途)
  貴人では居住地の名が用いられたのです。
   (例:住居の例は、足利家家督なら室町殿。 足利義視なら、還俗前は浄土寺殿、還俗後は今出川殿。)
   (例:畠山政長の場合、諱が政長。 通称が次郎または弥次郎
      官途は、尾張守尾州とも表記)のちに昇進して左衛門督。または左金吾(左衛門督の唐名))

  ちなみに、この時代の武家の官職は、律令制の官職としての実体は伴いませんが、
  武家社会の『礼節』『家格秩序』の一端を担うものとして重要な意味を持ち、
  代々家ごとに決まった官途に任命されることで、家を象徴するものともなりました。
   (例:武衛といえば斯波宗家(武衛は兵衛府の唐名)。右京兆といえば細川宗家(右京兆は右京大夫の唐名))

  そして、晩年入道すれば、法名で呼ばれました。
   (例:山名持豊 → 山名入道宗全。 朝倉孝景 → 朝倉入道英林。)

  さらに、上の名も、祖先を同じくする血統を表す氏(うじ)(今は本姓ともいう)と、
  家の名である家名(かめい)(または名字(みょうじ))とがあります。
   (例:足利、斯波、渋川、畠山はそれぞれ "家名" であり、"氏" はみんな同じ源(みなもと)です。)

  ああもう、ややこしくてすみませんw
  でも、これが分かると一次史料(特に日記)を読むのが楽しくなるので頑張りましょう。
    ※武家の官位についてめっちゃ詳しく知りたい方は…
       【木下聡『中世武家官位の研究』(吉川弘文館)2011】 )

  (…豆知識終わり)




 という訳で、話はそれましたが、
この後、山名 vs 赤松が、水面下で始まってしまうのです。 (←この対立、この先ずっとポイント)
 (…でも実は、庶流の赤松山名との間では、播磨国をめぐりこれ以前に既にひと騒動ありました。
  この時、赤松(庶流)に味方したのは、伊勢家と庶流の細川家。 山名の味方は、細川宗家の細川勝元。
  山名方優勢で幕を閉じたものの、ここへ来て赤松宗家の復活。
  これは山名宗全からしたら、現将軍の父上の御敵を討った功績を無視した酷い仕打ち…なわけで、
  ああ、因縁は積もる…。)

 赤松宗家再興が長禄2年(1458)、
実は、山名宗全の在国謹慎処分が許されたのも、同年8月頃。
 (この宗全の赦免は、細川勝元が色々頑張ってたようです。(『経覚私要鈔』長禄2年6月19日))
でも、いきなり正面切って喧嘩売るわけではありませんよ。
この時点ではまだ、かろうじて世紀末は水面下ですからね、どうするかというと、
赤松家には有望なコネクションがありまして、実は、蔭凉職の季瓊真蘂赤松一族の出身だったんです。
 (だから、『嘉吉の変』に連座して季瓊真蘂も17年間失脚していました。)
伊勢貞親季瓊真蘂が幕府の中枢に関わっていたことは、蔭凉職の活動記録『蔭凉軒日録』から明らかで、
二人が相当陰で権謀術数をめぐらせていたのだろう…とか妄想してしまいますが、
うーん…まあ、日記から受ける心象は、読み方によって180度違ったりもしてしまうので難しいのですが、
私としては、それほど季瓊真蘂は黒くもないんじゃないかなぁ、と思ってます。
主家の赤松家に尽力はしていただろうけど、蔭凉職の職務を逸脱する程の利益誘導まではしていない感じ、たぶん。

 まあとにかく、赤松にとって山名は目の上のたんこぶで、
伊勢貞親と、蔭凉職で赤松一族の季瓊真蘂が、職務上深い関係にあった
ということを押さえておいて下さい。







「そして始まるスペクタクル」

 さて、『嘉吉の変』後の "びみょーな四半世紀" を語ってきた訳ですが、
あまりにびみょー過ぎて、なんかもう疲れてきました。
って、読んでくれている皆さんの方が疲れていますよね、すみませんホント。
でも、この期間を的確に捉えておかないと、この先の急展開理解不能で置いてきぼり食らうので仕方ない。
…ってか、今まだ寛正6年(1465)だよね?
『応仁の乱』勃発まであと2年あるじゃん。 …あ、ばれた? てへ。
実は、寛正6年(1465)は一見平和そうに見えて、では着々と世紀末の準備が進行していた年で、
次の文正元年(1466)には、一気に水面下水面下でなくなっちゃう急展開が待ち受けているのです。
そして、『応仁の乱』(1467)へ ―――
今までダラダラやってたのに、突然臨界点超えてみんな本気出しちゃう感じで、
あまりにハチャメチャなので、ページ分けることにしました。
しんどいでしょうが、『応仁の迷宮』を攻略したい勇者は、ついて来てください。


 では、ここまでの概略を述べておきましょう。
『嘉吉の変』後、大名たちの手によって "俺らで幕府" は危機を乗り越え、
8代目将軍義政が成人する頃には、近臣たちによって公方を頂点とする幕府体制が再構築されつつありました。
『内裏』や『室町殿』の再建、晴れ晴れしい大儀が続き、表面的には華やかで、
時代は栄華を極めているようにも見えましたが、しかし、
あの日に切れた糸は、水面下の世界で、彼らの未来を少しずつ歪ませていたのです。

 社会を形作るのは人々の意識。
気ままに漂う心を一つにまとめ、しかるべき明日に導くのが上意というしるべ
しかし、8代目の月は曇り夜空に身を隠し、彼らの水面(みなも)を照らさない。
暗い水底で繰り返される衝突はやがて、京の街をも巻き込んで、時代に転換を迫ることになるのです。

 "俺らで幕府" がバランスを崩した要因の一つに、義政幼少期の上意の不在が挙げられますが、
最も幕府基盤の安定した時代を築いた3代目義満も、その初めは大名に支えられた幼君でした。
両者の違い…それが、守護大名分国との関係です。
3代目義満の時代は、まだ守護の分国が完全に固定化される前で、大名は京都に重心を置いていました。
しかし8代目義政の頃には、分国はほぼ固定化され、大名は在地における基盤を固めつつあったのです。

 京都の求心力が、育ちつつあった地方との間で相対化され、
公方義政の「天下成敗不足」と側近の雅意(我意)が、大名の独走に拍車をかける。
室町幕府次代の姿に生まれ変わる契機が、大乱という方法であったことは残念ですが、
京都を舞台にした諸大名全員参加 "一緒くた戦" になったのは、彼らがやはり他人ではなく、
同じ船に乗り運命を共にする、(えにし)で繋がった存在だったからでしょう。
 (実は、『応仁の乱』における戦いは、
  戦国期における "個々に大名が衝突し相手の殲滅を目的とする戦い" とは、性質が異なります。
  その辺に留意すると、彼らの意図が見えてくると思います。)


…ただ、ここでちょっと疑問なのは、
この寛正6年(1465)の状況では、むしろ世の中良い方向に進んでいてもおかしくなかったんですよね。
畠山家の家督は廉直な畠山政長で(まあ、義就はちょっと可哀相だけどw)、
斯波家の家督は、家臣の支持を失った斯波義敏が改替され、
山名赤松の間にはやや不安があるものの、細川勝元山名宗全には舅と婿の縁があり、
そして、義政が将軍職を譲ろうとしている弟義視は、どうやら大名たちを率いる素質を持っている。
…うーん。 なんでこの状態から、あんなに派手に道を踏み外しちゃうかな?w
ああもう、ここで時間が止まって欲しい!
されど、時代は加速する!


さあ、次ページの「7 室町幕府の後半戦はじめました」は、いよいよ『応仁の乱』準備の大詰めだ。
招待状は見境なく、気前よく。 開始の花火は盛大に!
…といっても、彼ら、
自分たちがそんな祭りの準備しているとは、夢にも思ってなかったようだけど。

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